堤林剣、堤林恵著『「オピニオン」の政治思想史』

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 20世紀後半以降、いったん国家が成立すると、征服されたり戦争で負けたりしても国家はなくならなくなった。なぜ国家は死なないのか。本書はその問いに、一見身も蓋もない回答をする。「多くの人びとにそれを死なせるつもりがないからだ」(p.2)というのである。

 そこには死なせたくないという積極的な意志から、死ぬわけがないと思っている、死ぬという発想すらないといったものまでを含む。ヒュームやテンプルを引きながら、被治者が権力による支配に対して自発的に行うある種の同意とその作用を本書では「オピニオン」と呼ぶ。権力はオピニオンを調達できている限り倒れない。その単純であるがゆえの普遍的な原理を「オピニオン論」という。

 一方、ではどのように多くの人びとからオピニオンを調達するのか、つまり権力による支配を正当化するための言説は「正当化理論」と呼ばれ、歴史的文脈によってその時々に異なる言説が登場する。文脈が変わればそれまでの正当化理論は機能しなくなる。

 本書はそうした正当化理論の変遷をたどることによって、現在の「死なない国家」が成立するまでの展開を眼差す。具体的に歴史をひもとくのは第2章から第5章にかけてである。

「死なない王」の成立

 第2章は中世における「死なない王」の成立過程を見る。中世以来の絶対王政にとって、王権の絶対性を正当化したのは、まずは王権神授説である。権力を「神の代理人」とする聖書の文言が王権を担保する。しかしそれでは、王権が空白なく継承されて権力を持つことが正当化されない。肉体的に死んでも王が「死なない」ようにならねばならない。

 このとき11世紀西ヨーロッパの法学者たちは、古代のローマ法の再発見と研究を深め、法的に王権を正当化しようとする。「君主の欲するところのものは法の効力を持つ」という「王法理論」。首位性・絶対性を示す「十全な権力」や、非常時には自然法・神法を超えて立法権力を持つとする「絶対権力」。ローマ法では「人びとの集合体」程度の意味だった「団体」に、いまの法人のように擬制的人格を認める「団体理論」。こうした理論が、教皇、皇帝、国王それぞれの陣営の法学者によって生み出され、相互に影響しあい自らの権力を正当化するために持ち出される。

 「団体理論」の擬制的人格によって王国は不死性を認められた。さらに、教皇の持つ「威厳」は教皇を務める人間自身が死んだとしても、次の教皇に引き継がれるので「死なない」という概念が生まれる。そしてこの不死性は皇帝や国王にも移行し、「団体」と「威厳」という二つの死なないものが接続され、国王が威厳を継承することによって一つの死なない団体を構成するという理屈が生まれる。このとき王は宗教的にも法的にも死ななくなるのだ。しかし王や王国は、外敵の侵攻を許せば死んでしまう。そのため王を死なせないために、王国の構成員には死を求められる場面があり、ときに自己犠牲の精神にまで発展する。

「死なない王」のために王を殺せるか

 こうして拡張された王権はしかし、その正当化理論によって「死なない王」を守るために王を殺すという理屈を生むことにもなる。暴君放伐論である。近代主権国家に関する言説を振り返る第3章では、暴君放伐論による抵抗権概念や革命運動に対してこれを否定し国家を安定させようとする正当化理論を見る。

 取り上げられる思想家は3人。16世紀フランスの宗教戦争(ユグノー戦争)におけるボダン、17世紀のイギリス革命におけるホッブズ、そしてルイ14世の宗教弾圧時におけるボシュエである。それぞれ抵抗権を否定すべく正当化理論を打ち出す。

 抵抗権を主張する側の理屈は、王法理論で引かれたローマ法の文章である。「君主の欲するところのものは法の効力を持つ」には続きがあり、「王法に従い、人民が君主にその全支配権と権力を与えたからである」という。つまり君主権力が人民に由来する以上、暴君は人民の手に放伐できるのだ。このとき、人民が構成する「団体」から国王が区別されていることに注意が必要である。

 対して正当化理論の3人は、一度与えた主権は人民には戻せないという理論で絶対王政を擁護する。一人ずつ見ていこう。

 ボダンの理論は、かなり無理がある内容だったが支持を得ることができた。宗教への寛容を訴えたからである。宗教が国家の基軸である理由を王権神授説のみに求めず、宗教が人々の善悪の基準や紐帯の源でもあると主張することで、国王の規範として宗教への寛容を盛り込んだ。その後のナントの勅令につながっていくのである。

 一方ホッブズは自然状態というフィクションから思考実験を積み重ねる手法で、主権の源泉を理論化する。もともとバラバラだった個人が一度社会契約で代表者たる国王に主権を渡した以上、意志の統一性は主権者である国王を通じてでしか成立しないという。その精緻な理論は人民には難しく厳しいものゆえ、彼の普及努力にもかかわらずオピニオンを得られない。

 ボシュエは中世以来の宗教的権威性と、ホッブズの主権論・国家論をハイブリッドさせた形で抵抗権を否定する。と同時にボダン同様、国王は神意に適う公共善を目指さなければならないという理屈で宗教への寛容を規範化する。国家権力の世俗化をなそうとしたホッブズの試みはまだ人々が敬虔である時代においては早すぎた。宗教家であったボシュエの神学的側面を含む主張のほうが当時は人びとの支持を得られたということだろう。

神学が失効した時代のオピニオン

 しかし時代が下ると、もはや王が神の似姿とは誰も信じなくなる。王権神授説は支持を失い、貴族階級の反発はルイ16世の首を落とすまでに至る。フランス革命である。このとき主権自体が失われるのではなく、主権の原理が変わる。絶対王政から人民主権への転換である。第4章ではフランス革命以後、神学が力を失った次代のオピニオン調達の有り様をみる。

 革命政府は旧体制を否定するだけでなく、人民主権を支持するオピニオンを調達しなければならない。どうするか。合理主義と革命思想、つまり「理性」自体を信仰の対象としようと試みたのである。ノートルダム大聖堂に「理性の神殿」の名を与え、聖ジュヌヴィエーヴの聖堂を、ルソーやヴォルテールのような普遍的価値を表現したフランスの偉人の霊廟として位置づけた。このとき、普遍的価値を代表する国家としてのフランスというイメージが生まれる。理性を宗教化すること自体は成功とはいえなかったようだが、代わりにフランスという国家が、人びとを引きつける聖性と魅力を持つようになる。

 こうなれば「フランスのために命を捧げる市民」という理想像が生まれるのは既定路線というべきか。実際には簡単にみんな命を投げ出してくれはしなかったようだが、恐怖政治等々、さまざまな力で人民を動員していった軍は敵国への勝利と内乱の鎮圧に成功していく。プロパガンダは兵士の伝説化に拍車をかけ、今度は軍人がオピニオンを獲得し、ロベスピエールは、果ては共和国よりも自らの名誉を優先する者が出ると危惧した。

 まさにそうなった。ナポレオンによる支配の時代である。彼は優れた武官としての戦勝、優れた文官としての合理的な政治を進めたが、同時に人びとに合理が容易に定着しないことも理解していたためイメージ戦略を繰り出す。カトリック教会との関係修復、胡散臭さが目立たないように自分流にアレンジしながら国王のような振る舞いをする、などなど。結局は敗戦によって失脚するが、こうしたオピニオン操作術は後の総力戦体制においても各国が採用していくことになる。

不戦というフィクションを機能させる

 ボダンやホッブズが国家を死なせてはならないと考えたのは、国家が死んだら国民の多くが死んでしまうからだったが、その後フランス革命以後、国家が死なないために大量の国民に死を求めるようになった。その逆転現象を支えたオピニオンこそがナショナリズムであり、第5章はナショナリズムが全面戦争を引き起こす時代から現代までを扱う。

 国家を死なせないためのアプローチはナショナリズムによる総力戦体制だけではなかった。パリ不戦条約は第一次世界大戦の反省の下、戦争を違法化するという新秩序である。実際にはその転換のダイナミックさを理解している国は少なかったようで、新秩序はただ理念でしかなかった。

 シュミットの友敵理論、すなわち友と敵の区別は政治の前提であり、戦争放棄は主権国家にとって自殺行為でしかないという指摘は、実際その後世界大戦が繰り返されたことを考えれば当たっていたといえる。しかし道徳的な意味付けのされた戦争の敗戦国である以上、抹殺の対象たり得たドイツもイタリアも日本も、実際には滅亡していない。そして時代は不戦条約が掲げたような新秩序を実現させていく方向につながる。国家が死なない時代の到来である。

 シュミットが見過ごしたものはなにか。それは、不戦という擬制(フィクション)を支持するオピニオンだった。たとえフィクションであろうと、それを支持する強いオピニオンさえあればフィクションは機能するからだ。2度の大戦を経てついに人びとは、戦争放棄を決意したのである。

 ここまでたどってきたオピニオンをめぐる変遷は、オピニオンの主体が時代とともに拡大して影響力を増す過程だった。その到達点において、オピニオンはそのまま選挙として制度化され、単位も国民として統一され、直接政治に作用するようになる。デモクラシーである。

 しかしデモクラシーは不死と言えるのか。オピニオンの主体である「人間」を「国民」として統一化し束ねることができてこそデモクラシーは機能する。では政治そのものが党派化され、オピニオンが分断されてしまえば、デモクラシーはオピニオンを調達できなくなるのではないか。いま各国で起きている「分断」という現象は、デモクラシーの正当性をめぐる分岐点に立っていることを示唆すると著者は危惧する。

オピニオンが不要になる未来は来るか

 これまでの議論を踏まえた上で未来を展望する第6章はいささか突飛でチャレンジングである。オピニオンが不要になる時代の可能性を検討していくのだ。

 例えば資源国では膨大な外貨獲得のために、国民から税を徴収する必要がなく、したがって国民も公金の使いみちに興味を持たなければ、権力側もオピニオン調達に躍起にならない。結果不平等や貧困は放置される。最低限のオピニオンだけを調達しておくために、一部に利益供与を行い、敵を抑圧し、圧倒的な「選挙結果」をもって異論を黙らせる。資源と金が権力を作り出す国では、選挙はオピニオン調達ではなく、オピニオンを踏みにじるために使われる。

 著者はこうした「資源の呪い」と相似形の「テクノロジーの呪い」があるのではないかと訴える。テクノロジーの高度化によって、軍事ビジネスが強大化している。もはや市民の蜂起程度では揺るがない国家は、オピニオン調達を必要としなくなってしまうのではないかというのである。あるいは医療や生殖の技術が進歩し、一部のエリートが不老不死を手に入れ「死なない人間」が生まれる一方、テクノロジーの高度化で労働力が余剰化して「要らない人間」が生まれたとして、「死なない人間」たちは「要らない人間」たちのオピニオンを必要とするだろうか。

カーテンを破るな

 オピニオン論と、その中身である正当性理論の変遷という視点で歴史をたどる本書は、とても見通しが良い。それはひとえに原理の単純さと普遍性によるものだが、普遍性の持つ強みはまさに現代や未来へも適用できる点にある。メディアの多様化とSNSの発達による「分断」を、デモクラシーのオピニオン調達能力を弱める作用として見れば、いま世界で起きていることがいかに深刻かを実感できるのである。

 本書の魅力は文体が軽妙洒脱である点にもある。登場する正当性理論の各言説それ自体は、理論として一貫しているわけではなくツッコミどころも多い。その矛盾点を突き詰めるのではなく、あくまでもそれがオピニオンを調達してきたという事実に着目することが本論の趣旨だが、矛盾点への茶々の入れ方がちょうどいい。

 そして著者の思いが最も込められていく現代と未来への警鐘を成す第5章、第6章ではカーテンの比喩が筆を躍らせる。個人の自由や権利ではなく政治の暴力性に着目したシュミットの語りの鮮やかさを「あたかもマジックが行われているカーテンの裏に潜入して、トリックを白日の下に晒したかのような意外性と迫真性が両立している」(p.158)と評する。嘘を暴くという名目でフェイクが吹き荒れる現代を表すかのような記述である。

 しかしそれでもなお、著者はカーテンを破るなと訴えるのだ。フィクションを実際に機能させる現実的な力がオピニオンにはある。「一度嘘だと貶めたうえで破いてしまったなら、ふたたび糸を紡ぐところからやり直し厚い緞帳を織り上げるまで、もしかしたら人類が存続している保証すらない」(p.219)

 切れの良い構成と文体がとても魅力的な一冊である。久々にうっとりするタイプの優れた新書が登場した。

(岩波新書、2021年)=2021年5月17日読了

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