荻上チキSession-22 愛国ソング特集文字起こし

2018年6月14日

反リベラルが右派に回収されるゼロ年代

 荻上チキ そうした中で、この曲をかけてからお話を伺いたいんですが、これはレゲエになりますね。選んでいただいたんですが、ミュージシャン三木道三のヒット作、この曲をなぜかけるのかは、お聴きいただいた後に伺います。

  ♪三木道三「Lifetime Respect

 荻上 「Lifetime Respect」三木道三。日本に一つのレゲエのムーブメントを起こす先駆けにもなったわけですけど。

 南部広美 大ヒットですもんね。

 荻上 これは増田さんに選んでいただいたんですが、これは一見すると別に愛国とかは関係ないように聞こえるんですけれども、どうしてこの曲を選んだんでしょうか。

 増田聡 愛国ソングが問題化される文脈というのがあると思っていまして、文脈というのは音楽の意味というものを右か左かにきっちり位置付けてしまうような、受容の文脈がですね、2000年くらいから音楽に関しては固まっていった印象を受けています。

 この曲は表面上愛国心とかそういったことを歌っているわけではないんですが、何というんですかね、反リベラル的というか、インテリリベラルな人が嫌がりそうな家父長制的な価値観を歌っているところがあって。当時ネットなんかでも非難されていた記憶があります。そういった反リベラルというよりヤンキー的と言ったほうがいいのかな。左派的な人が好まないようなものっていうのがこの時浮上してきて、結果的にこの曲はどういう風になっていくかというと、これを支持する人は反リベラル的な思考みたいなところから右派へ引き寄せられていっちゃうような、そういう流れの中に置かれるような受容な文脈が生じてきたのを、象徴するとは言えないかもしれませんけど、これなんかはよく表れているような気がするんですね。

 荻上 反リベラルっていうような格好が「保守」と名乗られていくので、「保守」の中身が何なのかというと朝日とか民進党とかを笑うみたいな、ある態度として形成されていくということになるわけですよね。ある意味では当時はあえてこうしたことをやるというネタ的な文脈があったかもしれないけれども、真面目に受け止められると。

等身大の言葉がない「愛国」

 荻上 愛国というのが難しいと思うのは、辻田さんに伺いたいんですけれども、僕はヒップホップが好きで、ヒッピホップだと地元をレペゼンする、この地元を代表すると。例えばMummy-Dさんが「マボロシ」というユニットを組んだ時に、横浜出身であることなんかを歌ったりして、宇多丸さんも東京の文京区育ちっていうことを歌ったりする形で、こんな地元を代表する、あるいは自分は代表できないよ、みたいなことをやるというのは、結構ナチュラルなわけですね。

 これが主語が急に地元ではなくて日本になった時に、語る等身大の言葉がなかなか見当たらないから、とりあえずある言葉を使おうとすると割りと手垢の付いた昔の言葉が引っ張られてくる感じがするんですけれども。

 辻田 そうですね。

 荻上 共同体意識のサイズ感というのはどうなんでしょうか。

 辻田 愛国歌と英語で言うとPatriotic Songですけれど、Patriってそもそも生まれ持った共同体のことを言っているわけですね。手の届く範囲のものを愛するというか。それを表明する部分においては意味のこもった言葉になると思うんですけれども、そこから共同体を巨大化させてしまうとかなり言葉のパターンが似通ってしまうと思うんですね。過去に作られた幻想の共同体を作るための言葉といいますか。

 今回に関しても「HINOMARU」なんか典型的ですけれども、純粋な気持ちを表したっていうんですけれどもどこかで聞き知ったような言葉を持ってきてしまうんだと思うんですね。だから過去の軍歌に部分的に似てしまったんだと思うんですけれども。

 荻上 なるほど、そうしたことも受けてお知らせの後、もう何曲かできれば。

  ― C M ―

「日本すごい」のベタ化とグローバル化

 荻上 というわけで愛国ソング特集ということで、愛国ソングと言えるのか言えないのかという判断も含めていろいろかけているんですけども、後半は2曲かけたいと思うんですが、そのうち1曲は僕が選曲しました。アラジンで「陽は、また昇る」という曲。

  ♪アラジン「陽は、また昇る

 荻上 この曲のアラジンというユニットなんですけれども「クイズ!ヘキサゴンⅡ」という番組の中で作られたユニットで、島田紳助さんが作詞をしていたりするんですが、当時のおバカユニットというようにされるような「羞恥心」とか「Pabo」とかの合体ユニットでこの曲が作られていて、2008年にリリース。

 当時はリーマンショックもあるというような時で、非常に自身を失っている中で、このままじゃ終わらないよ、日本はまだまだ成長できるよというような、今鬱屈している状況の中で応援する日本応援ソングになっているわけですね。カラオケとかいろいろ考えたじゃんみたいな、まだいける、という曲になっていたわけですが。

 これ結構重要だと思うのは、このあたりからどんどん時間を掛けていくにつれて、低予算の番組がテレビで作られていく中で「日本すごい」というようなコンテンツが増えていくことになるわけですね。本人たちは愛国という文脈ではないかもしれないけれど、実はすごいんだという語りをリーマン・ショック以降テレビコンテンツが獲得していく。その中でメルクマールになるような曲なんじゃないかということで、この曲をかけました。増田さんいかがですか。

 増田 最高っすね(笑)。僕これ、ちょっとほんのりとしたパロディー趣味も含めてモーニング娘。の「LOVEマシーン」なんかを想起させたんですけども、頑張れソングというかバブルのことのリゲインの歌みたいな、日本の原動力とされているような経済的な領域に関する、ピュアなんだけどもパロディーがかった応援歌という感じで。僕これ元気出ますね。

 荻上 これを一つのベタとして受け止める。だからどういう風に捉えるのか。最後にもう一曲椎名林檎の「NIPPON」かけながらトークしましょう。

  ♪椎名林檎「NIPPON」

 荻上 椎名林檎さんの曲はどの曲も好きなんですけれど、この曲も話題となってライブでやる時に日の丸の旗をファンに配ったりしてみんなでパタパタと振ると。椎名林檎さん、いろんな記号をガジェット化して曲やミュージックビデオに取り込んで、近代的な例えば洋館であるとか、探偵モノであるとか、エログロナンセンスとかを取り込むのがとても上手な方ではあるんですけれども、ある意味ナショナリズムチックなものをサッカーのテーマソングとともに取り組んで、しかもそこに「混じり気のない青」を取り込むことで、「えっ、もしかしたら単一民族主義なの?」っていうような格好も、いろいろな憶測を呼んで話題を呼んだりした。増田さんいかがですか。

 増田 これすごく僕は象徴的な歌だと思っていて、これもゆずの曲と一緒のように非常によくできているんですね。多義的な解釈を許すような構造になっている。ビデオクリップを見ると特に印象づけられるんですけども。

 この曲はサッカーのテーマ曲になっているというのが非常に象徴的と考えていて、サッカー文化は日本においては92年のJリーグ開幕以降、非常に大きく変わっていく。「J」という記号がJリーグをきっかけに、J-POPもそうですね、広まっていくわけなんですけれども。あれは冷戦崩壊以後のグローバル化された時の日本人が日本を表象する時の記号ですよね。それまで日本国内、ドメスティックにとどまっていた文化空間から、グローバルな社会の中での「J」という意識を持った。

 荻上 J文学とかね。

 増田 それがサッカーに象徴されているんですけれども、面白いことにサッカーは愛国主義を煽るんだけれども、レイシズム、排外主義は決して許さないという構造を持っています。

 荻上 サッカーはね。

 増田 で、右、左というような文脈に回収されないような愛国の文脈みたいなものを関係者が努力しながら作ってきたところがある。椎名林檎の「NIPPON」という曲もある意味サッカーの文化的な構造、つまり政治的な右とか左じゃない、愛国心は持つんだけれども排外主義は拒否するといったようなそういった文化的な文脈を象徴するような形で、椎名林檎さんは作られたんじゃないかなという感じがしますね。

批判・評論の在り方は

 荻上 辻田さんいかがですか。

 辻田 この「NIPPON」という曲は出た時にまさに単一民族みたいな批判があったのは聞いたんですけれど、ちょっと無理やりすぎるかなという思っていて。サッカーのちょっと変わったテイストの応援歌だと思えばそれで終わりな話でですね、あまり無理やり批判をするとかえって反動があるので、私はむしろそっちを警戒するべきなのかなという気がしていますけれども。

 荻上 なるほど。そうした中でいろいろな曲を聞いてきましたけれども、曲の聴き手と、文脈は離れてアーティストの発言とか映画のメッセージであるとかっていうのは届いていくということになるわけなので、ある種それぞれが自分のスタンスに自覚的であることの成長のさせ方、あるいはそれぞれの文脈がどうだということの背景を各ミュージックのシーンであるとか、サッカーとかのスポーツのシーンとかを接続させていく言葉の力、評論の力、解説の力、そして対話の力、そうしたことが求められてくるようになってくるのではないかと思いますね。

  ― Main Sessionのコーナー終わり ―

  ― エンディング ―

 ♪ピチカート・ファイヴ「君が代

 荻上 ピチカート・ファイヴの「君が代」からエンディングに行きますけれどもですね。今日僕が思っていたことは、ゲストの方の2人とも一致するところもあれば違うところもあるんですけれども。
 
 個人的には言葉ってすごい力を持つと思うんですよ。人って生身の感情があるわけではなくて、感情を何かの表現に落とす時に、何かの言葉を学習してそれに当てはめていったりするわけですね。何かの怒りとか何かの好きっていう感情とかを、何かの的に当てようとすると、足元に落ちている石を拾って自分の表したい表現対象に投げる。それが例えば誰かを攻撃する石をたまたま拾ってしまったら、それは誰かを排除しなければ日本を好きになれないという形に結び付くこともあり得たりするわけですね。政治を語るということはこうした人を非難することなんだということを学習してしまう石をたまたま拾うということもあり得るわけです。

 南部 そばにあれば。

 荻上 その石がたまたま1個なのか、あちこちに同じような石が転がっているのかで状況は随分違うわけですね。アーティストとか広い意味ではメディア、ジャーナリズムとかっていうのは、そうした言葉の石をあちこちに散りばめる役割というのがあって、そうした言葉の一個一個を大事にする。その言葉がどのくらい広がっているのかということを、今日は意識しながらみんなに曲を聴いてほしいなと思いました。