2020 読書この一年

2020年12月30日

(前ページの続き)

絶えざる暴力の中で言葉を取り戻す─『海をあげる』

 暴力が日常化された社会においては、様々な形をした権力が人から言葉をも奪っていきます。例えば性犯罪被害者に対する差別的な視線。あるいは、米軍基地を巡る沖縄への本土の眼差し。言葉を発すること自体への抑圧の中で、それでも抑圧された人々の言葉を拾い集め、世に問うた本についても紹介したいと思います。

 打越正行『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち(筑摩書房、2019年、12月19日読了)と、上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち(太田出版、2017年、2月6日読了)はともに沖縄の貧困層の若者に取材した社会学者によるフィールドワークです。前者は参与観察の手法で暴走族、解体屋などの若年男性が、後者はインタビューによって若年女性が、苦しみながらどう生き延びようとしているかを明らかにしています。

 『ヤンキーと地元』では中学の先輩後輩関係が絶対視される地域社会の中で、暴力が蔓延していながらも、地元の中で生きることを余儀なくされる男性たちが描かれました。一方『裸足で逃げる』で示されるのは、そうした男性たちや、彼らが中心に位置する社会から抑圧され、虐待や暴力に絶えずさらされる女性たちもまた言葉を失っていく様です。

 痛みの中で生き、言葉を発せない人たちに寄り添う中で、かすかに発せられる言葉を受け止める者たちもまた、傷を負うことになるのは想像に固くありません。上間は今年、『海をあげる』(筑摩書房、10月発売、10月31日読了)で初のエッセイ集を出し、自らの傷も含めて言葉を記しました。そのタイトルの問いかけるものは、本土に住む私たちに向けられています。

 今年、NHK「100分de名著」シリーズでブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月(NHK出版、11月発売、12月3日読了)の講師を担当した社会学者の岸政彦は「他者の合理性」を理解することの重要性を繰り返し説いています。

 歴史学者の藤野裕子『民衆暴力──一揆・暴動・虐殺の日本近代(中公新書、8月発売、9月6日読了)が描き出したのは、暴力を国家が独占したはずの近代において、それでも暴力を振るった民衆たちの論理を理解する重要性であり、この点「他者の合理性」と似た問題意識があるのではないでしょうか。一方で、民衆による暴力の向かう先が弱者であったことについて決して免罪せず、民衆暴力の二面性を正面から捉え、どちらかの物語に乗るような歴史修正主義的態度を戒めます。

 その上で藤野は、関東大震災時の朝鮮人大虐殺事件に対し、デマに踊らされた民衆像だけでなく、それを煽動し、あるいは自ら手を下しながら隠蔽した国家権力を敢然と批判しています。歴史学が現在に何を訴えかけられるのかという命題に対する、真摯な応答と感じました。

見た・聴いた・読んだ 2020.8.31-9.6
今週のフロント 藤野裕子著『民衆暴力─一揆・暴動・虐殺の日本近代』 書影は版元ドットコム  暴力の正当性を国家が独占する近代体制下であっても、ときに民衆は暴動を…
charlieinthefog.com

 濱野ちひろ『聖なるズー(集英社、2019年発売、9月19日読了)は、動物を性愛の対象とするズーファイル(当事者は略して「ズー」と自称する)に取材したノンフィクションです。彼・彼女らは、自らの性欲を満たすためだけに動物とセックスするのではなく、あくまでも動物を自分と対等な存在として相互に愛し合っているのだと主張します。著者はズーたちと寝食をともにしながら、ズーの言う「対等」や「同意」とは何か、さらに性愛や暴力とは何かといったテーマについて思索を深めていきます。

 ズーにとっての動物性愛とは、(人間と人間との性愛がそうであるように)自らと相手の性欲に向き合うこと。ゆえに、彼・彼女らの価値観に触れた著者は、ペットの去勢が、動物を子どものように可愛がるために性欲を奪う残酷な行いに感じられてしまう、そんな境地に至ります。動物愛護の精神が切り捨てているものに気付かされるのです。

 このノンフィクションを、興味本位の実録モノではなく、私たちの価値観を揺さぶる内容にさせている源泉は、文化人類学者らしい取材の丹念さに加えて、著者の切実な問題意識にもあります。著者は10年にわたるDVから生き延びたサバイバー。言葉を失うような体験をした著者が、性愛を語る言葉を得ていくストーリーでもあるのです。翻って、私も含めてそうした経験のない読者にも、言葉を主体的に獲得していかねばならないという意識が生まれてくる、そんな力のある作品です。

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