2021 読書この一年

2021年12月31日

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歴史=フィクションとフェイクの間で

 堤林剣、堤林恵『「オピニオン」の政治思想史』(岩波新書、4月発売)は、ある国家が死なないのは、国民がその国家を死なせたくない、死ぬとは思っていない、といった考え=「オピニオン」を持っているからだ、という(ある意味身も蓋もないが)単純で普遍的な原理を軸に、国家がどのように「オピニオン」を調達してきたかを議論しています。

 王権神授説、天賦人権論といった政治思想史における重要なキーワードを、「オピニオン」調達の歴史として見ることは、今の体制もまた「オピニオン」に保たれているに過ぎないことに気付かされます。著者はそうした「オピニオン」に保たれた現在の不戦を基調とした世界秩序を、マジックが行われているカーテンにたとえた上で、「カーテンを破るな」と訴えます。そうした「オピニオン」を「フィクション」だと笑い軽視するのはたしかに容易であっても、このカーテンを破ってしまっては、再び織り上げられる保証はないのだ、と。

堤林剣、堤林恵著『「オピニオン」の政治思想史』
 20世紀後半以降、いったん国家が成立すると、征服されたり戦争で負けたりしても国家はなくならなくなった。なぜ国家は死なないのか。本書はその問いに、一見身も蓋もな…
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現代におけるデモクラシーの危機。それは、世界の大規模な変容の反映である。この危機を生き抜く鍵は、人々が織りなす「オピニオン」なる曖昧な領域と、その調達・馴致の長…
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 「オピニオン」を「フィクション」だと言ってカーテンを破ろうとするとき使われるのは「フェイク」です。現在の世界秩序は不合理で間違っていると言うためには、その秩序の成立経緯を不当なものとしなければならないからです。

 そうした「フェイク」はどのように社会に漂い、社会は「フェイク」にどのように対抗すべきなのか。これを考えるヒントとなるのが武井彩佳『歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書、10月発売)でした。

 本書では学術的な論争を経て歴史が見直されることと、歴史修正主義的な歴史の書き換えとは何が違うのかといった考察も含んでいますが、私が本書で一番おもしろいと思ったのは歴史が法廷でどう裁かれてきたかをめぐる欧米のいくつかの事例です。

 1980年・カリフォルニアでのマーメルシュタイン裁判では、アウシュヴィッツでの虐殺を裁判所が「公知の事実」と認定したため、虐殺があったかどうかについての証明は必要なしとされました。

 しかし1983年・カナダでのツンデル裁判ではホロコーストの有無は「公知の事実」とはされず、刑事裁判だったため検察がホロコーストがあったことを立証しなければならないという事態に陥ります(なおこの裁判では有罪となったものの、最終的には有罪の根拠となる刑法の「虚偽ニュースの流布」を禁じた刑法の規定自体が違憲と判断され、に無罪になる)。

 2000年・ロンドンのアーヴィング裁判は、ホロコースト否定論者のアーヴィングが、彼を批判する本を出した出版社に対して名誉毀損で訴えた裁判で、出版社側がアーヴィングが資料を故意に捏造していて学術論争の必要条件を満たしていないことを立証する必要に迫られました。このとき、名うての歴史家がアーヴィングの論文をつぶさに検証していく作業を担い、この結果、出版社側が勝訴に至ります。

 歴史を法廷で裁くことには、誰が何を立証するのかということが必ずセットで付いてきます。そしてこの過程で、歴史の正しさをあらためて積み上げていき、歴史修正主義者の語る「歴史」が誤りであることを指摘することに莫大な労力がかかることが示されます。人間の尊厳を踏みにじる言説でありながら、粗製乱造でき、それでいて学術的な積み上げのある言説と同じ土俵にすぐ乗ることができてしまい、対抗側に大きなエネルギーを使わせるという幾重もの暴力性が歴史修正主義にはあることが見えます。

 ヨーロッパではホロコースト否定論やナチス賛美を法的に規制し、刑事罰を科すという方法が多くの国で取られています。「歴史の司法化」と呼ばれる現象ですが、人間の尊厳を守るためのこの手法は、表現の自由との関連の問題はもちろん、たとえばソ連社会主義体制による虐殺や、その他のジェノサイドまで処罰の対象とするかどうかが国によって分かれ、さらに「何を処罰対象とするか」をめぐる政治が国際対立を煽る方向へと向かうという新たな問題も起きています。

 人間の尊厳を守るための「フィクション」が瀬戸際に立たされていながら、守り方も覚束ない現実を突きつけられます。

ナチによるユダヤ人虐殺といった史実について、意図的に歴史を書き替える歴史修正主義。フランスでは反ユダヤ主義者の表現、ドイツではナチ擁護として広まる。1980年代…
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