「違和感を感じる」に違和感はありますか?

2019年3月8日
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 「馬から落馬する」のように、同じ意味の語が重なった表現を「重言」という。意味を強めたり語調を整えたりする修辞技法として肯定的にとらえられることもあれば、冗長な表現として退かれることもある。一般に公式文書では避けるべきだとされるが、実際には重言はありふれている。

 ウィキペディアは「馬がいななく」も重言に含める。確かに「いななく」を辞書で引くと「馬が声高く鳴く」と書いてあった(新明解国語辞典第6版から。以下同じ)。あたかも関数のように「馬がいななく」へ代入すると、確かに「馬が」が重複する。

 ではこれも「正しい日本語」的な価値観では排除されるべき表現なのだろうか。

 いくら主語を必須としない言語だからといって、「いななく」だけで成立する文章はまずないだろう。〈主語が付くときは使えない〉なんて制約を掛けることにどのくらい意味があるのか。しかも万葉集にすら、「いなく」の形ではあるが「衣手葦毛の馬のいなく声心あれかも常ゆ異(け)に鳴く」と歌われている。

 さて、題に掲げた「違和感を感じる」はどうだろう。

 「馬から落馬する」がアウトな理由としてよく言われるのは、さっきの代入の論理で「馬から」が重なるからというものだ。

 この理屈を採用するならば、違和感は「違和を感じる」ではなく「しっくりこない感覚」のことなので重複にならない。それどころか違和の語釈は「対象をすなおに受け入れたり環境に自然になじんだりするのに抵抗を感じること」なので、「違和を感じる」のほうこそ重言になってしまう(!)のだ。

 かつて学生新聞を作っていた時、同期のコラムに「違和を感じる」と書いてあったのがどうも引っ掛かった。先述した辞書的理解はまだなく、「『違和感を感じる』を回避したのだろうな」とは思ったが、同時に言葉への規範意識と、それに順応する手段の姑息さを感じて興がさめた。

 後で本人に聞くとそんな意図はなく、自分にとってしっくり来る表現だったという。私がさもしいだけだった。

 とはいえ、書き手の立場として「違和感を感じる」は、同じ字が並ぶ点で冗漫な印象があり、避けたい気持ちもある。どんな代替案が浮かぶだろう。

 「違和感を覚える」はその一つだと思うが、私の印象では「感じる」よりもやや書き言葉的で堅い感じがある。「抱く」「生じる」「生まれる」も同様の理由で、自分の表現としては好みではない。

 私は「違和感がある」と書くことにしている。語感も「感じる」と同程度に身軽で、むだがない。

 人によっては「ある」だと存在しか示せず、「ない状態からある状態へ変わる」ことを示せないと言ってくるが、どうしてもそういう動的な表現をせざるをえない場面に今のところ出合っていない。そもそも「違和感がある」と言えば普通は、そういう感覚をまさに感じていることを指すだろう。

 主語が人から違和感自体に変わってしまう欠点はある。ただ日本語には助詞「は」という便利なものがある。主体を示したければ「私は違和感があった」で問題ない。

 こうして読み手、書き手双方の立場から重言を例に表現を考えると、私の言語観が浮かび上がってきた。なるべく肩の力を抜いた、言文一致傾向の強い文体を志向しているようだ。注意しないとだらだらした文章になってしまうが、不要な文脈をそいでこそ核心が伝わるという信念には合う。そしてそれは小手先でどうこうするものでもない。だからこそ形式主義的な「正しい日本語」的規範は、邪魔に思っている。