先日、新聞部時代の先輩、同期との飲み会で、いつものようにしているある種の話題が出た。これまでその話題は割と僕がまくし立てることが多かったが、今回は「もうその話をする立場ではなくなってしまった」と断った。
僕の高校以降は、なにか自分が大切にしている価値観が変容するにつれて、語りを失っていく過程だったと思う。
ことしの神戸ルミナリエが始まった日のNHKニュースの原稿で、「復興を成し遂げた」という過去形言い切りの表現があった。
すごく無神経に思えた。阪神・淡路大震災が浮き彫りにした課題はまだ解決されていないものも多い。借り上げ復興住宅の追い出し問題や、コミュニティー維持の在り方はその代表例だが、未だこうしたことに力を尽くしている人がたくさんいる。だから「成し遂げた」は言い過ぎな気がする。というか「復興を成し遂げた」は、大きな物語に一人一人のそれぞれの24年を回収してしまう、暴力的な表現だと思う。
そうした価値観は僕が学生記者をやって得たものだ。とても大事だし、今後も持ち続けるだろう。
そして、ゆえに「復興を成し遂げた」とは言えなくなった。代わりの表現を探すのは難しい。「目に見える街並みは復興した」などとルミナリエ原稿で言ってしまえば、それは単なるルミナリエに対する嫌味でしかない。おそらく「復興へと尽力した」とかならギリギリセーフか。少なくとも現在の神戸を一言で言う言葉などない。
価値観を得る代わりに、語りは複雑になり、容易に使えなくなる。そんなことだらけだ。
間違いないのは、語れなくなった表現は、今あえて語りたいものではない。「自主規制」とはそういうものであるべきはずだ。
飲み会で話すようなプライベートな話題の場合、それを「自主規制」し語りたくなくなる過程を理解し、あるいは傾聴する。そういうことを互いにできる関係は、僕にとって友達の中でも一歩踏み込んだ間柄と言えるかもしれない。
(2018.12.10)