きょうも生きています #112

2021年4月12日

 大阪ステーションシティシネマで『騙し絵の牙』を見た。当初の予定ではその後、テアトル梅田で前日にも見た『街の上で』を再び見るつもりをしていたが、『騙し絵の牙』が結構ハイテンポな映画で、このテンションで見に行って良いのかなあと迷い始めた。

 ノースゲートビルの12階にある劇場から、まず10階までは1階ずつの短いエスカレーターに乗る。その次は5階の「時空(とき)の広場」まで直通の長いエスカレーターで、下っている間、そういや昔好きだった人と最後に喋ったのって時空の広場だったなと思い出した。

 もう何年も前に、告白したけどだめだった人がいた。その人とは結局付き合わなかったはずなのに前よりもむしろ仲良くなって、数か月おきくらいにデートに行ったことがあった(ただし当時は、付き合ってないのだからデートと呼んではいけない、みたいな空気が互いにあって、正面切ってデートとは呼ばなかったと思う)。細かいことは覚えていないが、梅田で飲んだ後にちょっと名残惜しくて、当時行ったことのなかった時空の広場のベンチで小一時間喋ったのだった。

 その時に僕が切り出した話が、「僕ももう好きとか、そういう感情はなくなった」というようなことだったと思う。さっぱり意味不明で、なんでそんなことをわざわざ言ったのか分からない。友達としてこれからもよろしく、的なことだったのかもしれないけど、にしても気持ち悪いしわざわざ言うことじゃないだろう。

 しかしそれも遠い思い出になり、その女性のことを思い出すこともかなり減った。今後会う可能性はかなり低いし、別段会いたいとも思わない。会ってもいいけど、どっちでもいい。いずれにせよ、過去フォルダに入ってしまった人だ。

 そう考えると「不在」は、存在しないのではなく、現在の生活に紛れもなく存在する形態なのだ。今の自分には「不在」という形で自分の生活に存在している女性が1人いるのだけども、その人とも最後に喋ったのは大阪駅だった。ただし5階ではなく3階。乗る路線が違うから単に改札前でさよならしただけで、その後、僕は当然、再会するつもりだったけど、その時は来ないまま「不在」になった。

 『街の上で』もそういえば「不在」がたくさん存在する映画だった。下北沢の街に暮らす若者たちはみんな「不在」の存在と生きている。「不在」を前にするとみんなだらしなくて情けない。やはり実際に存在すると、自分をカッコつけたり、言わなくて良いことを言ったり、存在を鬱陶しく思ったりしてしまう。「不在」の存在とはあれだけ好き放題、自分勝手に対話するくせに、現に存在するとなかなかそれができない。だらしない。でもそんなもんだろうとも思う。

 エスカレーターを下りながら、そんなことを考えていた。だから当然、気持ちは『街の上で』再鑑賞に傾く。後は茶屋町へ向かうだけだった。

(2021.4.11)