「マス」と「個」──観望会解説スタイルの違いに思う

 今年1月以降、2〜3か月おきに堺市役所前の広場で有志グループが開催している星空観望会に毎回顔を出している。僕自身は天文に疎く、大して興味があるわけでもないのだが、知人が多数スタッフとして参加していることから毎度、観望会を見守る人として招かれている。

 8月の観望会は初めて、市のイベントの一プログラムに組み込まれる形での開催となった。といっても細かな段取りがあるわけではなく、ほぼいつもと同じように望遠鏡を置いて訪れた人に星を覗いてもらう感じだが、市広報紙の宣伝もあり来訪者がとても多かった。

 今回興味深かったのは、スタッフによって解説スタイルの違いが如実に表れたことだった。(1)とにかく天文の知識や情報を洪水のようにしゃべくる人もいれば、(2)構成をある程度固めた説明を体得していて安定感あるトークを展開する人、そして(3)自ら積極的に情報を差し出すのではなく観察者の反応を待つスタッフと、バリエーションが出た。

 終了後にスタッフの一人と牛丼店に行った。(3)のタイプの彼にとって観望会は、知識のある側だからこそ見えないものを認識する場として楽しみなのだという。たとえば子どもが、星の色が「虹色に見える」と言うことがある。教育を受けた大人ならそれは星の色ではなく、光の入り方、反射の仕方によるいわばノイズであり、これを無視して色を判断してしまう。

 「僕らは望遠鏡の中の虹色に見えるものを、虹色とは言わない」。自分の認識を相対化して、既に獲得している感覚や知識をフレッシュなものに感じ直す体験が、観望会でできるのだという。

 プラネタリウムの解説員はよく「今夜晴れていたらここに何々が出ているはずなので、空を眺めてみてくださいね」と話す。観望会でも同じで、特にネオン輝く都会で開いているものだから「ここでも見えるくらいですから、ぜひおうちや帰り道でも」という。

 確かに、とは思う。天文には疎いといったってさすがにオリオン座や夏の大三角くらいは分かるし、帰路の信号待ちでふと夜空を見上げて、おお光っとるなとか思ったりはする。

 ただ、たとえばこれは「観望」なのか。定義的には間違いなく観望だけど、僕にとっては、これは単に見ている、眺めているという無名の行為にすぎない。日記かなにかで「信号待ちの間に夜空を観望した」とか書いたら、カッコつけている感じがする。

 要は「観望」は少々の形式を必要とするものだと認識している。というか、漢語をわざわざ使わなくても、能動態としての「星を見る」こと自体がそうなのだ。僕の予感では、「星を見る」ということが望遠鏡を使ったり、どこか好条件地に出掛けたりすることを自明的に想定している人が少なくない気がする。

 言い換えれば普通の人にとって「星を見る」ことは社会的行為だ(ここで言う社会的行為とは人が人と関わってする行為程度の意味である)。望遠鏡を持っている人は決して多くないし、わざわざ天文ファンでもないのに好条件地に独りで出掛けることも少ないだろう。

 先の人とは別のスタッフに、天文ファンは星を見ることをどう捉えているのかと聴いてみたら「個人的行為じゃない?」と言っていた。彼はマス相手の解説をする側の人だ。

 マス相手の解説は、聴く側にとってはその記憶は個人的なものとなり得る。解説目当てで観望会に来るようなマニアは別として、普通は望遠鏡を覗きたいから来ている。記憶は当然、望遠鏡を覗いたことをメインに構築され、解説は後景に退く。だから社会的行為である観望会は、記憶の中では個人的な体験になってしまう、ということだ。

 要はテレビや講演会に参加したのと同じで、個対個のコミュニケーションをしているわけではない。そこに他でもない「わたし」が参加したという記憶は観望会スタッフには共有されないし、多分記憶されるものはコンテンツとしての解説内容や、それを聴いた内面の動きということになるだろう。

 こう考えると、マスコミュニケーションの楽しさを感じ育って、それの送り手になりつつある彼が星空を楽しむことを「個人的な行為」と話すのは合点が行く。

 一方で、(3)のスタイルは来訪者もスタッフも、観望会の体験を社会的な記憶として後々に残すのではないかと思う。関係性の記憶と言ってもいい。特に来訪者が子どもの場合、この側面は大きいだろう。

 子どもの生活は、自分にとっての世界を記述する過程であり、観望会のような文教活動は、世界の記述を加えたり書き換えたりする絶好の機会と言える。そして子どもは、望遠鏡の中の初めて見る世界によってどんな感想を抱き、どんな発言をしても普通は大人に肯定される。(3)のスタイルはこうした特性にとても合致した手法だと思った。

 もちろんマス相手の解説にもメリットはある。多くの人数をさばけるということはもちろんだが、子どもを連れた親を中心に、大人を満足させることができるからだ。子どもの活動の決定権は大人にある。大人にも楽しんでもらわなければ、子どもが天文にのめり込もうというチャンスを失いかねない。かつて教育テレビでやっていた「ハッチポッチステーション」という番組は、子どもにはまるで分からない洋楽パロディーをやっていたが、あれはまさに親の心をつかんで、子どもにも影響を与えていた。

 むしろ僕なんかは、言葉や知識から興味を持つタイプで、見たものを見たまま鑑賞することが苦手なので、マス相手の解説のほうがありがたい。

 結局は両方あったほうがいいのでは、ということなのだ。

 しかし難しいこともあるのだという。林間学校などに招かれて観望会を開くことなどを考えると、大人数、時間制限、教育的効果などの観点から、望遠鏡操作を素早く行う技能を持った上で解説内容や望遠鏡で観察するときのポイントを定型化してどんどん人数をさばいていかざるを得ない。また外部行事に組み込まれる場合は、会の内容について綿密に打ち合わせてフィックスされることもあるという。

 ただ僕は観望会を、より広く公共的な活動として取り組むのであれば、一対一の関係性を基盤にした解説も重視してほしいと思う。特に感じるのは、社会から追いやられがちな人がこうした公共に居場所を求めることはよくあるということだ。

 実際観望会にも、話し方や振る舞いが通常の人と違う人たちが来ることも多い。独り暮らしの高齢者が来ることもあったし、これは観望会に限らず、文教施設を訪ねたり、以前企業展覧会のスタッフをしたりしたときにも目にした光景だ。公共がそうした居場所を確保することは、社会にとって絶対に必要だ。

 こうした人たちには普通の人以上に相手がなにを求め、こちらがどう応えるべきかを探りながらコミュニケートすることが必要になってくる。思えば観望会終了後に牛丼を食べた(3)のスタイルのスタッフは、こうした特段の配慮が必要な来訪者に、丁寧な対応を毎度していることに気付く。

 観望会のスタッフそれぞれが、会に参加し運営することの楽しさや意義をどこに見出しているかは微妙に違う。今の参加スタッフはこの微妙な違いがうまく響き合って、なるほど会の良さにつながっている。

 望遠鏡の操作技術の向上とか、現状手弁当状態の運営をもう少し持続可能な態勢にすることなど課題はあるだろうが、僕としては引き続き観望会自体の魅力とはなにかを探る手伝いを続けたいと考えている。