なぜNHKの四国統括は松山なのか

2019年12月17日

「四国ブロック」がなかった初期NHK

 まずはNHKの歴史をたどることから始めた。現在の特殊法人としてのNHKは1950年設立で、それまでに法人の改編が何度かあったが、本稿では区別せず「NHK」と呼称する。

 四国4県で最初に開局したのは1932年の高知放送局だった。徳島放送局が翌33年。松山放送局は少し空いて41年3月で、高松は「大阪中央放送局高松出張所」として44年5月に放送を開始している。

 日本のラジオ放送は1925年に東京、大阪、名古屋の3大都市で始まった。以降「1928年6月から7月にかけて、札幌・仙台・広島・熊本局といった日本の各ブロックに、拠点となる局(第1グループ)が開局している。続いて1930年から金沢、福岡、岡山、長野、静岡、新潟など、地方の都市に開局(第2グループ)する時期が続いた後、1941年の太平洋戦争直前にかけては小電力局の地方局(第3グループ)が大量に開局している」(樋口2014、pp.68-69)。この区分けに従えば高知と徳島は第2グループ、松山と高松は第3グループと言える。

 注意すべきなのは、局は小倉、浜松、弘前など県庁所在地以外の都市にも置かれていること。「当時の各地における人口や産業の規模、軍事的な理由だけでなく、ラジオ放送の使用する周波数帯のエリア特性等を勘案して置局されたものと考えられる」(樋口2014、p.69)。

 また現在のように放送局は県域を基本にしていないことにも留意が必要である。東名阪と札仙広熊の7局が「中央放送局」として番組編成面でも独立性を持ち、1934年まで「地方支部」として各ブロックを管轄した。「1930年代前半は、全国中継体制は整ったものの、関西や東海といった支部の独立性は高く、それぞれの支部が番組編成で大きな権限を持っていた。一方で、それ以外の放送局は支部が置かれた都市の放送局〔中央放送局のこと─引用者注〕の傘下にあった。1930年代初めまで、放送の地域性は県域ではなく、地方ブロック単位で形成されていた」(村上2017、p.33)。

 ゆえに松山と高松の開局が高知、徳島に遅れたのは恐らく都市と県の規模や地方の統括機能よりは、電波の届く範囲などの事情を優先させたことが大きいのではないだろうか。実際、1931年時点でも広島局の放送は愛媛県で、岡山局の放送は香川県でもそれぞれ聴取可能な地域があったようだ(日本放送協会編1932、2ページ「全国電波伝搬一覧図」)。

 しかし問題は松山がどうこうという以前に、四国を統括する拠点自体がないことだ。1933年時点では既に徳島と高知が開局しているが、大阪中央放送局の放送を受ける割合が高かったという(村上2017、p.32)。また40年1月時点では徳島は大阪管内、高知は広島管内として扱われている(村上2017、p.38)。四国は一つのブロックではなかったのだ。

 NHKに四国地方を管轄する組織がやっとできるのは1943年12月1日。松山放送局は「大阪中央放送局松山分室」となる。本部新潟分室(信越北陸5県管轄)、札幌中央放送局豊原分室(樺太管轄)も設けられた。この時何があったか。

 NHK放送文化研究所『20世紀放送史〔年表〕』によると、この措置は「新設された新潟・松山・樺太逓信局との業務上の連絡等のため」(NHK放送文化研究所2001、p.97)とある。行政機関の新設に対応したものらしい。

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