東京大学の入学式であった、名誉教授で社会学者の上野千鶴子氏による祝辞がインターネット上でもなかなかに評判だ。東大のウェブサイトに全文があるので、未読の方はぜひ一読を。細かい点はいろいろと指摘があるようだが、私は大筋として面白くかつ意義深い祝辞だなと思った。東大が今このタイミングで、新入生に贈る祝辞に上野氏を選んだこと自体も含めて、新入生に対するメッセージである。
私がよく聴いているTBSラジオ「荻上チキSession-22」でもこの祝辞が紹介され、荻上氏がコメントしている。
で、祝辞紹介の前段で言われていることが本当にそうだなあと思った。
(荻上チキ)僕は今年はね、大学で教鞭をとっていないのでちょっと気が楽なんですけれども。
(南部広美)そういうものですか。
(荻上チキ)やっぱりその大学でね、授業をする際に「この大学でこの授業を受けてる段階で……」って。たとえば僕の授業だったらメディア論。「……メディア論の授業を受けてる段階で、あなたたちは世界中で上位1%以内に入るメディア論のエキスパートにもうなったということなんだ」っていう話をするわけです。
(南部広美)はー。
(荻上チキ)それは日本の大学進学率は2人に1人。50%程度ですよ。で、世界で見ると、もっともっと少ないわけです。で、日本の中で、たとえば僕が教えていた早稲田大学とかだと、受験戦争を勝ち上がってきて。それで特定の学問を学ぶということになるわけですよ。だからよくあの何かの学問で「教科書レベルしか書いてないな」とか、そういった言い方で本の悪口を言ったり。
「あいつは教科書レベルのことしか学んでないから、その先のこと知らないんだ」っていうような批判するっていうことが、特に学者同士のマウンティングだったりとか、何かの知識自慢の時に出てきたりするんですけども。教科書レベルを学んでる段階でエリートなんですよ。
(南部広美)本当、そう思います。
(荻上チキ)で、それは別に褒めているということでもなくて、だからこその自覚が必要ですよっていう話をいつもするんですけれども。
https://miyearnzzlabo.com/archives/56317
僕が通っている大学は東大とか早稲田には当然及ばないけれど、旧帝大の次くらいに位置付けられてはいるので、経済という学問領域に属する人の多さを考えても、まあやはり上位2、3%くらいには入るんだろうとは思う。
その大学・学部の授業を真面目に受けずに落第したような人間が垂れる能書きでないのは承知の上で、教科書レベルにアクセスできるかどうかというのは確かに重要だなあと思っている。
特に経済なんて、出自のよく分からない自称経済学者や評論家が珍説を最もらしく唱えることがよくある領域である。研究成果の更新がめまぐるしいこともあって、どれがトンデモか自体を判別するのも難しいという側面はあるが、にしても、である。
僕はとにかく学問に対して不真面目な学生だったので、大学に来た意味とか、大学で得たものとかを問われると閉口してしまうのだが、それでも一つ自分にとっての価値を見いだせるとしたら、それはその学問の「教科書」を知ることができる場だったというのはあるかもしれない。
授業には出ない、試験も一夜漬け、みたいなポンコツでも、「あの時勉強してれば…」みたいな後悔の時は定期的に来るもので、それがたまたま暇な時に当たれば教科書を読み直す。取ったことのない授業だったら、シラバスを見て教科書を調べる。GoogleやAmazonで調べるよりも圧倒的に「妥当」な本が見つかるわけだ。
僕は頭が悪いから、自学には限界があるし、本が良くても自らの受容の在り方によって知識が歪み、元も子もなくなるなんてことも多分あるとは思う。だから常にその自己批判はしないといけないのだけど、「教科書レベルから手を付ける」ということがどれほど意義あることかという認識は常に持っておきたい。