映画『あのこは貴族』

2021年5月1日
見た・聴いた・読んだ

 自分の身体を自分のものとして自由に扱うことの難しさを描く映画として見た。東京・松濤の開業医の家庭で箱入り娘として育てられた三女・榛原華子(門脇麦)の一挙手一投足は、高家で教育されたものである。婚約した弁護士・青木幸一郎(高良健吾)の家を訪ねれば、ふすまの開け閉め、敷居のまたぎ方、座布団までへの移動とその全てが見られており、華子は華子でそのチェックを難なくクリアできる。後に出会う地方出身の時岡美紀(水原希子)とアイスを食べる時も、美紀が棒をわしづかみにするのとは対象的に、華子は棒の先を指2、3本でつまむように持つ。

 なぜ所作が教育されるのか。その根底には、華子の家庭においては華子は華子のものではなく、家のものだという価値観があるからだ。母として世継ぎを生むことが女の第一義的な存在意義であるという価値観は青木家にも榛原家にもあったのだが、華子がそれに直面し自覚するのは嫁入りしてからだった。多忙な幸一郎とすれ違う生活の中で、家から求められるのは不妊治療のみ。夜、一人バルコニーで酒を飲む幸一郎は、自分の役割とはなにかという華子の問いに、やはり家の論理でしか返せない。それしかないのだから。結局、華子が三行半を突き付けられるのは「母」にならなかったからだろう。

 一方美紀の地元・富山でも、経済的な階層こそ違っても、青木家や榛原家と相似形の社会が存在する。そういう世界から自力で出て、家の経済事情で大学を中退せざるを得なくなっても東京にとどまり踏ん張りながら生きる。しかしその実、幸一郎に都合のいい女として扱われており、やはり個として尊重されている節は見えない。

 思い出すのは赤木智弘の「『丸山眞男』を引っぱたきたい」である。既存の序列を崩し、まぜ返す。それが戦争であるならば、就職氷河期で苦しんだ彼らは失うものなのないのだから、戦争はむしろ希望なのだ、そういう論考であった。

 しかし『あのこは貴族』を見ていると、階層が異なっても、女が自分を生きることへのハードルは変わらず高いことがわかる。つまり階層それ自体が、男のなかだけの序列でしかない。確かに幸一郎も、家を継ぐというジェンダーロールのプレッシャーに疲れ切っており、自分の身体を自分のものとして扱えていない一人ではあるが、それは序列構造に組み込まれた者としての疲れであり、女の序列にも入れない無念とは少し違う。

 美紀と大学時代からの友達・平田里英(山下リオ)の独身2人が、レストランで仲良くする楽しい会話は、老後介護を受ける時に痛くないように、このまま独身だったら下半身の脱毛に行こう、というものだった。その後2人は本題の共同起業の話へ移り、意気投合する。華子は華子で、友人のバイオリニスト相良逸子(石橋静河)のマネジャーとしての道を歩み、それまでタクシー移動ばかりだった華子がすっかり自分で運転を始めている。この社会で自由に生きるというのは脱毛の会話とか運転とか、そういうささやかなところから始まる。階層は違ってもそれぞれの立場で、自分を大切にするために励む彼女たちの姿が、私たちの困難な生活を励ましてくれている。

(2021年3月20日・4月10日、テアトル梅田で鑑賞)