映画『猿楽町で会いましょう』

 ラブコメタッチではなく、恋愛の得体のしれなさを考察し、その過程で社会の構造を浮き彫りにするような邦画の良作がここのところ立て続けに公開されている。『花束みたいな恋をした』や『あのこは貴族』は、自立した若者が手探りの中で理想の生活を作っていこうと奮闘するがゆえに、ジェンダーをめぐる不平等のような社会の抑圧構造に絡め取られていく様を描いた傑作だった。

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 本作『猿楽町で会いましょう』はその苦しい部分をより前面に出した作品であり、『花束』『あのこ』と違って救いがない。モデル志望で地方から上京したユカ(石川瑠華)を、男性優位社会が徹底的に搾取し追い込んでいる。

 社会的弱者である主人公を苦境に徹底的に追い込むようなストーリーは、例えば『ミッドナイトスワン』のように、ときに批判の対象となりえる。観客の感動を誘うために主人公を苦しめるのは、結局社会的弱者は弱者であるがゆえに簡単に生きてはいくことはできないのだ、というメッセージになってしまうのではないか、という趣旨である。

 ただ本作がそうした悲劇性と一定の距離を取れていると思うのは、「弱者が無力ではない」ということをちゃんと描いているところにある。つまりユカが付く「嘘」である。

パンフレットから

 駆け出しのフォトグラファー・小山田(金子大地)に対して「(彼氏は)いませんよ」「恋愛がよく分からない」と言いつつ、実際には同棲している男・北村亮平(栁俊太郎)がいる。どこか一線を引きたがるユカの振る舞いに、疑いを持ちながらも信じようとする小山田の姿は、たしかに男性の少なくない数が経験したり見聞きしたりしている。そして結局ユカの嘘は「裏切り」であり、ユカは男を弄ぶ「地雷」「魔性の女」「メンヘラ」「姫」として男の間では語られていくのだろう。

 だが、そもそもユカの経済的基盤はかなり危うい。その埋め合わせをするために、大して自分を大切にしてくれるわけでもない北村の家に居候せざるを得なかった。あるいはマッサージのアルバイトで知り合った業界人の客・嵩村秋彦(前野健太)から、仕事の紹介の対価として性的サービスを要求され従った。

 すべてユカの選択かもしれない。一方で夢や希望を人質に取られた状況での選択であることを無視してはいけない。何者でもない自分が何者かになろうという賭けに身を投げんとする若者に対して、男たちが平気でやったことは、ユカの安全圏を崩した。それを「ユカの自己責任」に押し付けるのが許されてしまうなら、そんな社会は間違いなく男性優位の社会である。

 小山田は、渋谷区猿楽町にアパートを借りられて、雑貨撮影の仕事は常にあり、業界の有力者に直接売り込みに行けるくらいには実績が既にある。ユカが二股している感触を得ながら、そこに向き合うこともなく、ただ仕事が軌道に乗り満足感を得ていくにつれ、ユカを置いてけぼりにできてしまう。小山田の行動は事実上、ユカを、自らの淋しさを埋め合わせてくれる都合のいい女として扱っているからこその行動なのだ。

 そもそも小山田とユカの出会いは、ユカのプロフィール写真を撮ったときだ。つまり撮影者と被写体の関係であり、しかも明らかに被写体のほうがお金を払うべき場面だ。夢や理想の象徴だったはずのカメラは、暴力性を内在するものでもある。小山田が撮るユカの写真は確かに良いものばかりだが、それはユカにとってではなく、ユカを見る者にとって、という留保が付く。終盤、小山田がシャッターを切る様は、鮮やかで、痛くて、恐ろしい。その後のラストシーンは、一線を超えた小山田にちゃんと責任を負わせようとする、監督の意志を感じた。

 ユカが嘘を付き、男の都合のいいものにならないことは、傷だらけの自分を守るための抵抗である。信田さよ子著『家族と国家は共謀する』が言う「弱者は無力ではない」を体現するかのようである。本作を見てユカの苦境に心を揺り動かされた者なら、同書の「サバイバルからレジスタンスへ」の副題の意味も理解できるはずだ。

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 ただ正直に言えば、自分がもし、付き合っている相手からユカのような振る舞いをされたら、許せないと思ってしまうだろう。どれだけ不均衡があろうといったん付き合ったからにはお互い、果たすべき相手への責任があるだろう、という思いに駆られるような気はする。実際『花束』や『あのこ』の主人公たちは、不均衡がありつつも対等関係という擬制をあくまで守ろうとし、挫折して、失敗の責任を(少なくとも意識の上では)共同で負うことによって、良き思い出へと消化していく。そのほうがいい、とも思えてしまう。

 私も本作鑑賞中、感情移入したのはどちらかといえば小山田のほうだった。しかしユカをファム・ファタールにするだけの映画なんだろうかという引っ掛かりがあり、終映後に改めて内容を振り返ってここまで書いたような結論に達した。

 だからこの救いの無さはつらい。どうしたらいいのか分からない。救いの道を提示してあげるべきだ、とも言いたくなる気持ちはある。しかし本作はまさにこの苦しみを苦しみとして描くので十分だ。この途方に暮れる感情自体、僕の半生にだって、あなたの半生にだって見覚えのあるユカたちが抱えた苦しみなのだから。

(児山隆監督、2021年)=2021年6月19日、京都・出町座で鑑賞