4℃論争

思う・考える

 退勤後に読んでいた太田光『芸人人語』(朝日新聞出版、2020年)で、萩元晴彦、村木良彦、今野勉著『お前はただの現在にすぎない』(田畑書店、1969年。のちに朝日文庫で復刊)について触れていた。同書を読んだことはないが、存在はさすがに知っている。伝説のテレビ制作者たちが到達した「テレビには何が可能か」の答えが、このタイトルである。すなわち、「現在」に縛られ、時間を歴史に再編するでもなく、時間を選択して作品化するわけでもなく「ただの現在にすぎない」という非難を、むしろ自らの独自性として位置づけた、テレビの肯定宣言である(横江広幸「<連続インタビュー・転換期のメディア(2)>テレビ・今も『お前はただの現在にすぎない』か~演出家・今野勉氏~」NHK放送文化研究所『放送研究と調査』2004年5月

 キザな物言いになるが、近頃の世の中の激動を前にして、なんだか訳知り顔でああだこうだ言っている、言いたがろうとコロコロ考えることが変わる自分も、所詮「ただの現在にすぎない」という感覚がある。そしてそんな自分を「ただの現在にすぎない」という理由において肯定したいという意思が、今の自分にはある。

 こういった意識で書くことだと最初に言い訳した上で、本題に入りたい。ここから先は(ここまでもそうだったように、ある意味)くだらない話である。

 クリスマス近し。ツイッターは4℃のアクセサリーは恋人へのプレゼントとして適切かどうかの論争で盛り上がっている。

 この論争自体は毎年のように起きている。昨年だったら関わりたくなくて黙殺し距離を置いていたと思う。でも今年は「サンタはコロナにかからない」と大真面目な仕事してる人たちが夢を振りまくのと同じ世界で、「プレゼントは物ではなく気持ち」的な夢の是非をわいわいやり合っているのを見るのも悪くないような気がした。

 夢、と書いたように「物ではなく気持ち」論は綺麗事すぎてなんかしっくりこない。だから、いい年して4℃のしかもオープンハートなんか贈るかね、というのが自分の基本的なスタンスである。だが、しかし、である。

 モテない人間にやっと恋人ができて、手が出せる範囲でわずかに聞いたことのあるブランドを買って相手に贈る自分に夢を見たくなる気持ちはまあ分かる。分からない人には分からないだろうけれど、そういうことはある。断末魔のようにそういう欲望を隠さず吐露するツイートが現にたくさん存在している。

 が、夢を、よりにもよってやっとできた恋人に押し付けるのか?という批判心もある。結局は相手とコミュニケーションを繰り返して、適切な物を贈る(あるいは贈らない)しかないのではないか。

 一方でそんな批判を言えるのも、己の欲望を発動する機会もないまま、その深さをなめきっていられる安全にいるからなのかなとも思う。4℃に不満を持つ人に4℃をあげてしまうというのは、それだけ、退っ引きならない状況に自分が追い込まれている(あるいは無意識に自分で追い込んでいる)かもしれないからだ。

 僕は基本的に自分の理性を信用していない。なので、理性と欲望が突っ張り合う場に自分を置くこと自体を避けてきた。自分はなにかから目をそらし、逃げている、という意識がある。ゆえに、変なものでも贈ってるだけ偉いじゃないか、と思いたくなることもある。しかしそれはあまりにも、論争の元ネタの当事者に自己を投影しすぎている。

 ここまで行ったり来たりしながら考えていたら、次のツイートが目に入った。

 今の僕には、この論争で一番良いツイートだなと思えている。1.5万円のシルバーリングが恥ずかしいと分かっていて、それでもなお贈らざるを得ない状況は、この人が自分で起こしたのか、自分が吸い込まれたのか、簡単に断定しにくい。そういう曖昧さの決断は後に、全く無駄ではなかったことが分かるとしても、結末はハッピーともバッドとも言い難い。こういう経験談には、所詮頭の中で揺らめいているだけの道徳は力を失う。

 僕の考えは時の流れにつれてころころ変わる。でも多分4℃論争は今後も定期的に起こるだろうから、2020年のクリスマス前に考えていたことを、後に見返した自分がどう感じるか、2020年の僕は関心がある。なので書き留めておく。なぜこんな感慨を抱いているのかはいろいろ思い当たる節はあるが、なんとなく書かないほうが良いような気がするのでやめておく。ただ言えることは、今年も人にクリスマスに物を贈るようなことはないということである。