選びっぱなしの学生選書企画でいいのか──大学図書館の展示を見て

本記事は、noteで2019年10月7日に初出したものです。

 大学の図書館が、学生選書企画で選ばれた書籍を並べた展示をしていた。毎年恒例の企画で、僕も数年前に一度参加した。高価で手が出ない本も買ってくれるのですごくいい企画だと思ったし、当時は、5千円する大瀧詠一の著述集とか、日本占領下の朝鮮半島にあった朝鮮放送協会にまつわるドキュメントなどを買ってもらった。

 さて、今年の展示には残念な面があった。まず一つには産経新聞の編集委員が書いた、戦時中の日本による「朝鮮統治」を賛美する本が並んでいたこと。さっと立ち読みした程度だが、端的に言えば歴史修正主義的な内容で、現代の国際社会が直面している人権意識の高まりや、戦後和解体制への異議申し立てといった文脈を踏まえていない。

 「ちゃんと読んでから批評しろ」というのはごもっともだけど、こういう本には手を付けないという本読みの「勘」みたいなものは、仮にも高学歴とされ、ましてや選書に参加するくらいには本に興味のある学生の中でも共有されないことへの悲しさがあった(というか1500円もしないんだからわざわざ図書館に買ってもらわなくてもいいだろ、とも)。

 もう一点。一部の本には選書者の推薦文が添えられているのだが、『マイルス・デイヴィス自伝』に付いた農学部3年生のコメントが、当時のジャズ界の状況を「評論家ではなく当事者が語るから真実味がある」としていた。当事者の語りが大きな価値を持つことは間違いないけれども、それと「真実味」は別の話だということも常識として共有されていないのだろうか。


 学生選書企画はそもそも、学生の図書館活用を促すための取り組みとして始まった。購入依頼は日常的に受け付けられているのだが、その認知度は特に学生の間では低い。イベントとして開催することで実際に使ってもらおうという狙いがあるし、学生の興味・関心で選ばれた本は他の学生にとっても有用な本だろうという見込みもあるだろう。

 ただこの二つの例が示唆するものは「選びっぱなし」の問題だ。企画展は、学生の推薦文が一部の書籍に添えてあるという仕掛け以外はただ本が並んでいるだけだ。それでいいのだろうか。

 僕は「朝鮮統治」賛美本について、図書館が購入すべきでないとは思わない。大学は研究の場だから、言説研究などのような形で必要になることもあるだろう。図書館は表現の自由の保障主体でもあるから、素人の選書だとしてもそれを企画した以上は、専門家が本の内容を理由に購入を拒むのにはいろいろと理屈立てがいることも予想がつく。

 図書館は個々の書籍について大まかに「購入するかどうか」「開架の状態にするかどうか」「企画展示に入れるかどうか」という選択をしている。そういうバリエーションがある中で、今回は学生選書企画で選ばれた本だから、購入の上、企画展示の形で開架にすることは妥当な判断だ。

 ただ、ここは大学である。大学は教育の場であり、研究の場であり、議論の場だ。それに適した人的資源もある。せっかく企画展示をしているのだから、選ばれた本に対して教員、研究者もさらに学術的に妥当だったり、理解を深めたりするのに資する本を選んで応答したり、学生が選んだ本にレビューを加えたりするというやり方は十分あり得るのではないかと思う。

 マイルス自伝についても、学術や評論・ジャーナリズム界の成果にあたるような文献を提示する手があるだろう。弊大学には音楽学の研究者もいるようだし、批評の価値自体を学生が認めていないというのは学術界としては結構な問題なのではないか。

 本好き、本読みのためだけに図書館があるのではないだろうけれど、仮にも学府の図書館なのだから、面白い試みである学生選書企画をもっと知的好奇心をかき立てる内容にすることは可能だ。その広がりの余地を感じる出来事だった。