タイトルは関西のある鉄道会社の社歌から引用したものです。その会社はどこだと思いますか。僕はこの文字列で想像するのは南海電鉄でしたが,それは間違い。答えは近鉄でした。
社歌 “近鉄の歌”
走る海 光る海
走る街 光る街
伸びる 伸びる近鉄
レールが光る
走る山 光る山
走る村 光る村
伸びる 伸びる近鉄
タイアが光る
より美しい
住まいのために
ララララー
幸福(しあわせ) 満ちる
いこいのために ために
走る風 光る風
走る夢 光る夢
伸びる 伸びる近鉄
明日の近鉄
(『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道,2010年,220ページ。1番のみ引用。)
この曲,永六輔作詞,中村八大作曲,ダークダックス歌,小原重徳とブルーコーツ演奏という豪華な面々によるものです。 いわゆる,六・八コンビってやつですな。
なぜ最初が海なのか
ところで,僕が引っかかったのはやはり,なぜ一番最初に登場するのが「海」なのかです。僕にとって近鉄は山の中をひたすら走り抜けるというイメージです。確かに名古屋線なんかは海沿いのところも多いですが,それでも近鉄の母体は大阪電気軌道(大軌)なんだから,最初に海を持ってくるのってなんなんだろうと引っかかったわけです。
というわけで,大阪市立中央図書館に行って調べてみました。建物の外観でも写真撮ってくればよかったんですが忘れましたね。
“近鉄の歌”は3代目社歌
見つけましたのが,近鉄の社史であります『近畿日本鉄道100年のあゆみ』です。2010年に刊行されました。 先ほどの社歌の歌詞もここから引用しました。それによると,以下のように記述があります。
昭和21年には社歌を制定した。歌詞は社内で公募した。(旧)南海鉄道部門分離後の23年7月20日には、新生近畿日本鉄道の発足を機に改めて社歌を制定した。その後、41年10月1日には永六輔作詞、中村八大作曲の“近鉄の歌”を社歌に制定し、現在に至っている。
(220ページ)
つまりこの“近鉄の歌”は3代目の社歌ということになります。同じページには初代,2代目の社歌も載っていましたが,“近鉄の歌”とはかなり趣が違います。これは記事の末尾に資料として引用で掲載しておきます。
僕が注目したポイントとしては,初代社歌の「一府五縣」という歌詞。近畿日本鉄道は昭和19(1944)年,戦時の交通統制のあおりで,関西急行鉄道(近鉄の前身)と南海鉄道(南海電鉄の前身)の合併により設立されました[注1]。そのため,当時の近鉄のレールは,大阪・奈良・三重・岐阜・愛知に加えて和歌山にも通っていました。「一府五縣」はこれに由来しているわけですね。なお,現在の近鉄京都線にあたる部分は,当時はまだ奈良電気鉄道でした[注1]。
昭和41年周辺何があったか
さて,六・八コンビによる3代目の社歌“近鉄の歌”の話に戻ります。社歌についての記述は,さっき引用した1段落と歌詞のみ。となれば,あとは状況証拠に基づいて推論するしかありませんね。
先にも記したように,“近鉄の歌”は昭和41(1966)年に制定されました。この周辺に近鉄では何があったのかなあと思い,いろいろと社史を読んでいますと,その前年の昭和40(1965)年4月に近鉄は三重電気鉄道を合併していることが書いてありました。
三重交通の全額出資により、「三重電気鉄道株式会社」は昭和39(1964)年1月7日に資本金3億3,000万円で設立され、2月1日、三重交通からの三重線ほか3線の鉄道事業を譲り受けた。三重電気鉄道は当社へ鉄道事業を譲り受けた。三重電気鉄道は当社へ鉄道事業を引き継ぐために設立されたもので、40年4月1日、当社は同社を合併した。
(354ページ)
もともと三重交通は、戦時期の交通統制により三重県内の陸上交通事業者が合同して誕生した会社で、昭和19年2月11日、神都交通を存続会社として7社が統合、同日、「三重交通株式会社」に商号変更されたものである。
(354ページ)
これにより,近鉄は志摩方面の路線を獲得。まさに,景勝地の海へ続くレールがここに成立したわけです。
昭和41(1966)年制定の社歌で,なぜ街・山・村をさしおいて海が最初に登場するのかという謎の答えは,前年の三重電気鉄道合併なのではないかと僕は結論付けました。
のびる伊勢志摩
その推論をより確実なものにするため,伊勢志摩関係のほかの記述を見てみました。
「当社にとって伊勢志摩は最も重要な観光資源の一つで、特に志摩地域の観光開発に力を注いできた」(304ページ)と書いてあるとおり,近鉄の動きは早いです。昭和26(1951)年には志摩観光ホテルを開業。その後の特急網整備やPR活動の甲斐あって,伊勢志摩への観光客も年々上昇しています。
ところが,課題もありました。先ほど触れた三重電気鉄道の合併の話。合併後,三重電気鉄道の路線は近鉄志摩線となりますが,この志摩線の起点は鳥羽。一方,志摩方面に向かう近鉄の路線の終点は山田線の宇治山田。つまり,宇治山田~鳥羽間が途切れているのです。この区間はバスで乗り継ぐか国鉄参宮線を使うかしなければならなかったのです。これは不便。
そうした状況を改善する後押しになったのは,大阪万博でした。
昭和42年8月、当社は「伊勢志摩総合開発計画」を策定した。これは日本万国博覧会に訪れた多数の内外観光客を伊勢志摩へ誘致するため、この地域の交通体系の確立と観光施設の整備充実を推進する計画であった。当社では伊勢志摩を「万国博第2会場」と位置づけ、特に志摩地域の観光整備に重点を置いた。そして、この総合開発計画の基盤となる鉄道線の整備が、「万国博関連三大工事」の一つである鳥羽線建設及び志摩線改良工事であった。
(305ページ)
伊勢志摩を「万国博第2会場」と位置付けるって相当強引な気もしますが,それでも当時の人たちは本気だったんでしょうなあ。
何はともあれ,そうした流れの中で昭和44(1969)年12月には宇治山田~五十鈴川間で運輸営業を先行開始。昭和45(1970)年3月1日には五十鈴川~鳥羽でも開始され,空白区間が埋まり,大阪・京都・名古屋の3都市と賢島が特急で直通されました。ちなみに当時の特急の所要時間は,大阪~賢島が2時間32分,京都~賢島が3時間4分,名古屋~賢島が2時間4分だったそうです。(305~306ページ)
万博の開始が3月14日ですから見事,間に合った形となっています。社史では以下のようにこの業績をたたえています。
当社の伊勢志摩総合開発計画による諸施設の充実とも相まって、日本万国博覧会開催中はまさに「万国博第2会場」となったのである。
(306ページ)
結論
調べてみると,万博のテーマソングの1つである村田英雄『万国博音頭』は,“近鉄の歌”制定と同じ昭和41(1966)年に発売されたものでした[注2]。昭和39(1964)年に国会や政府が万博誘致を決定,翌年に正式に大阪万博開催が決定[注3]。東京五輪を経て次の国家プロジェクトとして,そして関西の戦後復興を象徴するイベントとして万博が注目される中で,その時流に近鉄も上手く乗り,海の景勝地・賢島へ路線をつなげました。そうした背景の中で作られた“近鉄の歌”だけに,一番最初に登場するのは街でも山でも村でもなく,海だったのかもしれません。
注釈
資料 「近畿日本鐵道社歌」 昭和21(1946)年制定
わが手の握るハンドルも
君が打ち込む鶴嘴も
きづく文化の曉の聲
大空たかくひヾき行く
近畿日本鐵道
われら新日本
一府五縣にまたがつて
希望の鐵路かぎりなく
おこす産業ひらく土地
力雄々しく伸びて行く
近畿日本鐵道
われら新日本
二萬にあまるわが友が
意氣と腕をとりくんで
放つ新たな道義の火
社運おほきく榮え行く
近畿日本鐵道
われら新日本
(220ページより引用。一部文字について機種依存文字のため新字体のままとしているものがあります)
資料 「近畿日本鐵道社歌」 昭和23(1948)年制定 作詩:土岐善麿
空は歴史の雲高く
道は平和の野も廣し
近畿の山河東に西に
鐵輪日夜とゞろくところ
文化の日本ひらけたり
かしこ輝く観光路
ここに産業栄えあり
近畿の山河東に西に
建設時のよろこび乗せて
はるかにむすぶ輸送陣
窓はあかるく勤勞の
希望ゆたかに進むとき
近畿の山河東に西に
團結つよくちからをあわせ
われらの任務畫すべし
(220ページより引用。一部文字について機種依存文字のため新字体のままとしているものがあります)
<チャーリイコメント>
2つとも歌詞が,実際に鉄道事業にかかわる社員目線で書かれているのは,昭和21年制定のものが公募であることと同時に,ちょうど社員の共済組織が整備されたり福利厚生関係の事業が始まったりしていることもかかわっているのかなあと思います。社史のなかでも,社歌の項目は福利厚生関係の記述の直後になっています。
おまけ
大阪市立中央図書館に向かう道中,初めて長堀鶴見緑地線を利用しました。駅名標などのフォントがほかの路線と異なっていて趣深いですね。車両も小さくてかわいらしかったし。
追記=2015年4月10日18時33分
この記事の続編記事「みをつくしても知らむとぞ思ふ」を執筆しましたのでぜひお読みください。