NHKで放送中のアニメ『映像研には手を出すな!』が面白い。アニメーション制作を通じて「最強の世界」を体現させようとする女子高校生3人組の奮闘劇に、強く心動かされている。
舞台設定こそ作品の命と、作品の世界観を構想することが好きな監督気質の浅草みどり、アニメーター志望で人物の動きをリアルに描くことにこだわりを持つ水崎ツバメ、アニメの知識はないが儲け話に目がなく予算獲得や進行管理などを通じてプロデューサー的役割を担う金森さやか。3人は運命の出会いを経て、新たに「映像研究同好会」を結成する。校内には既に「アニメ文化研究会」があるが、水崎が俳優の親に入部を反対されたこともあり、新たに部を立ち上げることになったのだ。
作中では、3人が浅草の空想世界に入り込んで冒険に繰り出す劇中劇が頻繁に展開される。鉛筆と水彩具で描かれた設定画を「動かす」様は、まさに浅草、水崎が独り温めてきたアイデアが、話の通じる仲間を得たことでどんどんと溢れ出していく初期衝動を映し出す。
表現や創作という行為の根源的な喜びがここにある。僕自身はアニメや漫画に親しんでこなかった人間なので、SNS上でよく見るアニメファン、漫画ファンとしての感動とは違うのかも知れない。しかし僕は、高校時代に部活動でやっていたドキュメンタリー制作の過程と重ねて見てしまう。
初めて高校に通った日にたまたま席が前後で隣だった男と話が盛り上がり、自然と友達になった。やがて入る部活を探す中で、映像制作に興味のあった僕は放送部の見学に行ったのだがしっくり来ず、友だちになった彼と別の社会問題を学ぶ部活に入ることになる。やることは昼休みや放課後に集まって雑談すること、文化祭でポスター発表をすることの二つだったが、最終的に集まった(自分を含めて)計4人の同期で「話が通じた」。
僕はドキュメンタリーを作って文化祭で発表することを提案する。部にはもちろん経験はなく、部員の中でも映像編集をしたことがあるのは僕だけだったが、あるところに出掛けていってインタビューを行い、それをまとめたものを文化祭で流した。
少しの勇気を出して取材申し込みをした後はもう、初期衝動に突き動かされるままに取材、編集へとつなげていった。頭の中で考えていたことが実際に映像作品に仕上がる、そして発表してさまざまな反応を得る。あの感動は忘れ得ぬものだ。
『映像研─』で鍵を握るのは金森である。クリエーターとしてこんなことがしたい、あんなことがしたいとこだわりを持ちしばしば暴走する2人に対し、生徒会の予算承認を得るためにはとにかく派手でわかりやすい作品が求められること、プレゼンまでに間に合わせるためには手描きだけではなく自動作画ソフトも使うことなどを時に論理的に、時に脅しも使いながら2人に受け入れさせる。
時に衝突し、それでも俯瞰的にプロジェクトの在り方を考察し2人を引っ張り上げていく金森のモチベーションは、決して金儲けだけで語れないだろう。彼女もまた2人とコミュニケーションを取って、人と人との付き合いがしたいという人間的欲求がなければ、ここまで面倒な2人の舵取りを買って出ないはずだ。生徒会へのプレゼン後、圧倒される観客に目も暮れず、壇上で金森も含めて3人が作品のここはよかった、ここはこうすべきだったという談義に花を咲かせる場面は、まさにこの友情がにじみ出ていた。
映像研の3人は3人ともそれぞれの役割において優秀であり、才能どうしのタッグとして成立している。こうした関係は下手をすると、能力の需給関係という、人間愛や友情とは似て非なる入れ替え可能なものになってしまう危うさもはらむ。
現実には初期衝動が自在に自らを動かしてくれる状態というのは、永遠のものではない。必ずスランプは起こり、仲間同士のすれ違いも生まれ、時に修復困難な亀裂になり関係が瓦解したり、そもそも活動自体をやめてしまったりすることだってある。そうしたクライシスは仲間を人として敬い、それまでの関係史を愛し、確認し合うことを忘れてしまった時に起こるのではないか。言い換えれば活動の原点に互いに立ち戻っていくことで、初期衝動は再起動し友情は深くなっていく。
彼女たちにも、仲間であるがゆえの危機が訪れるかも知れない。その時彼女たちはどのように乗り越えるのだろう。自分はどう乗り越えてきたのだろう。本作は僕にとってアニメ讃歌、表現活動讃歌であり、青春讃歌でもあるのだ。