「ツイッター上で『通りすがりに女子高生が正論を言った』ツイートは嘘っぱちだとするものが見かけられる。まあ大元は知らないが、そういう話が多くなってきたのは確かだ」という文章を読んで、ああ確かにと思った。
なぜ女子高生に正論を言わせたいのだろう。別に正論なのだから誰が言ったって正論じゃないか。
まあ答えは目に見えていて、要は意外性と下克上感の演出なんだろう。正論を言いそうにない人が正論を言う。そして普段正論を闘わせていないような立場の人こそ、本質を見抜く目があって、学者や評論家なんかよりも信用できる。そういう思想である。
この手のツイートで正論イタコになるのは大人に対する子どもとか、男性社会に対する女性とか、下位に置かれる文脈が存在する立場の人だ。女子高生は(一応)子どもだし女性だし両方の要素を兼ね備えているから、正論イタコにもってこいだ。
自分より下位の人間が、自分と同じく賢明な意見を持っている場を想定することで、①自分より上位の人間に下克上でき、②正論イタコを取り上げて「承認」することで自分の上位性を確実にする、③自分が言ったわけではないので発言の最終責任を回避できる──とまあツイートの発し手にとっては非常に都合が良い。
結局正論を自ら言う勇気はないのだ。だから他人に言わせたことにしたいのだが、そこに差別的な構造を巧みに入り組ませているのが気持ち悪い。女子高生は発言の責任をなするためにいるのではないのだぞ。