自己肯定感の低さとどう付き合うか

2019年6月8日

 春に就職した知人が、同期と比べて自分は仕事ができていないと最近ずっと嘆いているのだが、「みんなは前に進んでいるのに」と言っているのを見たが、さすがにそれはないだろうと思った。

 たかだか入社2カ月と少しの程度で現れる成果は、「前に進んだ」結果とは思えない。そもそも客観的に見て「みんな」が成果を出しているのかどうか疑わしいという問題もあるのだが、仮にそうだとしてもそれは「みんな」それぞれの特性がうまく成果として現れているだけに過ぎないのではないか。

 確かにその人の持つ特性が企業社会で汎用的なものの場合、その人の仕事はすぐに成果に現れやすいかもしれない。社交性があったり、いろんな物事を知っていたり、てきぱきと作業ができたり。でもそれは、その人が努力によって得たものではないことが多いだろう。単なる特性である。

 努力によって得たものでない特性が、いま直面するタスクや作業環境、上司との関係などとうまくはまれば、すぐに成果に現れる。しかしやはりそれは「前に進んでいる」のではない。何も成長はしていない。

 確かに、成果が特性によるものか努力によるものかは、第三者からは見えにくい。ましてや新入社員である。実際には特性と努力は白黒付けられるものではなく、グラデーションであるが、いずれにせよたかが2カ月で判断できない。

 たかが入社2カ月の新入社員を「こいつは努力しないタイプ」と即断する上司も問題なら、たかが2カ月しか知らない同期を「前に進んでいる」と見る新入社員も早計すぎる。どんな形で自分が能力を培ったり、特性を発揮できたりするかはまだ分からない。少なくとも年単位で見極めるべきものだろう。


 僕も含めて自己批判を無意識のうちに習慣づけてしまって、自己肯定感の低い人間は、隣の芝生が青く見えたり、自らの努力の成果を認めにくかったりする。あまりにもそれが続くと「どうせ努力したところでうまくいかない」とモチベーションを得られなくなる。

 一つの手として「劣っててもいいじゃないか。やれることをやろう」と開き直ってしまう手がある。それが成果に結び付く手段かどうかは分からないが、精神衛生上、得策かどうかを検討してみると、自分の場合、落ち着いているときにはよくても問題状況に直面しているときには効果が薄いと感じる。

 問題状況とうまく距離感をつかめて冷静になったときに「劣ってても─」は次へ進むための一呼吸として機能する。でも問題状況に直面している時は、頭の中をずっといろんな考えやら感情やらが渋滞を起こして収拾が付かなくなってしまう。そういう状況で「劣ってても─」はあまりにも大雑把すぎるのだ。

 考えが渋滞しているのだから交通整理が必要なのだが、その時にあまりにも自己否定に寄りすぎた交通整理をしてしまうと余計に沈んでしまうだけなので、自分が納得でき、かつ不当な自己批判に徹しない落とし所を見つけるほかない。

 なかなか難しいのだが、そうした結論を自分で導くことができるようになるためには、落ち着いている平時から交通整理の訓練をして、その過程をなるべく言語化してどこかに吐き出しておくことが大事だと思うのだ。

 言語化するのがミソだ。というのも自己批判の癖がある人間は、自分を言葉で拘束しがちだからだ。「自分には能力がない」「人ができることができない」のようなキーワードは、自己批判のためのうってつけの言葉でとても魅力的なのだ。言葉による自傷行為と言ってもいい。

 その枠組みを逆位相に使ってみるのだ。落ち着いている平時に、たとえば知り合いが問題状況に直面している場合は、「ここまでは知り合いの責任かもしれないが、ここから先は当人の問題じゃないよなあ」と考えてみる。そのロジックを適切な方法で言葉にし記録する(鍵アカウントでツイートする、日記に書く、本人の相談にのる、でもなんでもいい)。そうすると、少なくとも、自分が問題状況に直面したときには「あの時そう考え、言った」ということが前例として重みを持つようになり、不当な自己批判に走るのを抑えてくれる、という仕組みだ。

 非常時に思考が渋滞しているときでも、平時の論理は「心が受け止めきれない」だけで「頭では分かっている」ことが多い。考えが変わっている場合は「頭では分かっている」という状態すらない。

 そうやって日々、他人の例やら、社会の問題やら、フィクションの世界やらに練習問題を求め、思考を繰り返し、たまに来るパニックの状況に備えるのが、薄い自己肯定感との付き合い方ではないかと思う。