「正しい日本語」ってなんだ

2019年2月4日

 井上陽水の『夢の中へ』には「探しものはなんですか 見つけにくいものですか」という歌詞がある。

 大学で新聞部に在籍していたころ、「探す」と「捜す」は書き分けるよう指導された。欲しいものや見つけたいものは「探す」、なくしたものや見えなくなったものは「捜す」。だから同じ財布でも、プレゼントに見繕っているのなら「探す」、落とし物なら「捜す」ことになる。

 ならば『夢の中へ』で探されているものは無くし物ではなかったのかもしれない。そりゃ「カバンの中もつくえの中も探したけれど見つからない」よ。

 というのは冗談だが、最近何でもかんでもこの手の校閲的な話が幅を利かせているようで気味の悪い感じがある。

 2016年に日本テレビが漫画『校閲ガール』をドラマ化して以降、校閲という仕事が注目されるようになり、毎日新聞校閲センターのツイッターアカウントも現在5万超の利用者がフォローしている。毎日のアカウントが面白いのは、実際に朱入れした原稿を掲載しているところで、まあよくも細かいところに気が付くものだと、元新聞部校閲担当として頭が下がる思いでいる。

 しかしこうした「正しい日本語」的な話に、違和感があることもある。

 文化庁の『国語に関する世論調査』では、慣用句などの表現について、その意味や使い方の認識を調査している。2017年度は「なし崩し」の意味を問うていた。調査結果に添えられた解説では「借金を少しずつ返していくこと」を「本来の意味」としているが、それとは違う「なかったことにすること」と答えた人が65%を超えたという。

 発表を受けて毎日新聞は「誤用65%」と見出しを立てるなど、正誤の二項対立的な報じ方をする向きがあった。

 これに対し『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明さんらを筆頭に、言葉の意味が正しい、間違っているなどと簡単に言うことは難しいと、二項対立的な捉え方を牽制する発言をする国語学者もいる。

 たとえば「この花は白いです」「とてもうれしいです」のように、形容詞に「です」を付ける表現は、1952年に国語審議会(当時は文部大臣の諮問機関)が出した建議「これからの敬語」(リンク)で「平明・簡素な形として認めてよい」とされたが、それまで「久しく問題となっていた形容詞の結び方」とされていた。

  国立国語研究所の前川喜久雄教授(音声学、言語資源学)による2012年の学会発表予稿(PDF)によると、現在「形容詞+です」の形は、日本語学習者のための教科書では認められているが、日本語の言語学的記述を目的とした文法では、述語の一形式として認める立場はほとんど見当たらないという。

 基本的に言葉は変化するものであると同時に、機械ではなく人同士のコミュニケーションのツールである以上、あいまいさを常にはらむものだと思う。

 同訓異字は、元々同じ「さがす」という言葉だった和語に漢字を当てる際、対応するものが「探」と「捜」の二つあったというような経緯で生じていることが多い。

 和語の表記揺れをなるべく排し、語と表記形が一対一の対応を形成するには、人為的に漢字ごとの音訓を定める必要があるが、現代のような揺れの幅の状態になったのはせいぜいこの100年くらいのことであり、「現在が日本語の歴史の中ではむしろ特異な状況下にある」という(今野真二『百年前の日本語──書きことばが揺れた時代』〈岩波新書〉を参照)。

 どうも日本人は「ら致」「ねつ造」のような漢字と仮名の交ぜ書きが気に食わないらしい。「拉」は常用漢字に追加されたし、「捏造」は新聞ではルビ付きで「捏造(ねつぞう)」と表記されるようになった。交ぜ書きの試みは頓挫に近い結果になっている。

 公用文や新聞記事のルールは、それが公共性の高い媒体ゆえに規範性が生じてしまうことは確かにある。本来多くの書き手が一つの機関として文章を発する都合上定めたルールだが、規範化され、いつの間にか「正しい日本語」視される。

 その規範に乗って一般市民が「探す」「捜す」を使い分けるのもいいが、別に使い分けなくたっていいのだ。少なくとも、なくし物を「探す」と書くことが、初対面の人と「合う」と書くことくらい変だという認識が世間にあるとは思えない。

 新聞の投書欄に散見される「正しい日本語を使え」という人たちのために校閲や表現が存在するわけではない。どのくらい厳密に言葉を運用する必要があるかは、場によって異なる。コミュニケーションの本質に立ち返って、他者の表現に向き合いたい。

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