読売テレビ「かんさい情報ネットten.」が5月に放送した、一般人にしつこく性別や性的指向を確認する内容を含んだVTRの問題について、今月10日、BPO放送倫理検証委員会の委員会決定が公表されました。同委員会の委員会決定は、不適切な放送に至る経緯を詳述していて資料的価値も高く、読み物としても興味深いものが多いのですが、今回もいろいろと読むべきポイントがあったと思います。
その中で私が特に印象的だったのは、報道局担当コーナーと、番組制作局出身の統括プロデューサーの下に情報バラエティー系社外スタッフが担当するコーナーとで、制作手法に著しい違いがあることに触れられた点でした。
「ten.」は関西の夕方ローカルワイドで、ニュースと情報バラエティーを同居させるスタイルをとった先駆的番組です。ゆえに「ニュースのバラエティー化」の文脈での批判が常に付きまとう番組ではあります。ただ今回着目したいのは、報道とバラエティーの演出方法の違いではなく、スタッフがどのようにVTRを作っていくかの過程の違いです。
報道の担当コーナーの制作過程は次のように説明されています。
第1部は、いわゆるニュース・報道番組。VTRは、取材・編集とも、報道の記者とカメラマン、音声・編集担当など局の社員スタッフまたは報道局に常駐する外部スタッフが行う。放送までのチェック体制も徹底している。取材や編集の過程で、複数のプロデューサーやデスクのチェックが入り、ベテランの技術スタッフが意見を述べたり修正を求めたりすることも珍しくない。
一方で今回、不適切な内容のVTRを制作した情報バラエティー系スタッフの動きは次のようなものでした。
ロケ後、VTRの仮編集は、もっぱら現場を取材したAディレクターの個人作業となる。その間、チーフディレクターが演出上の、B統括プロデューサーがコンプライアンスも含めた全般的チェックをそれぞれ2回行い、修正をしてテロップ等を加える本編集と録音を経てVTRは完成した
実際の過程をより詳しく書くと次のような流れになります。
- ディレクターが仮編集
- チーフディレクターがチェック
- 統括プロデューサーがチェック
- 局外のスタジオでディレクター、編集オペレーター、助手によるポスプロ編集(映像編集、効果音やテロップの付加など)
- 統括プロデューサーによる再度のチェック
- ディレクター、報道局常駐外部スタッフであるミキサー、ナレーターの社員アナウンサーによるナレーション収録作業
この時チーフディレクターは「コンプライアンスに関わるチェックはプロデューサーの仕事という理解をしていた」といいます。統括プロデューサーは、本人の承諾を得ているのかなどをディレクターに確認はしているものの、性別や性的指向の確認行為自体を問題視するには至っていません。
しかし最後のナレーション収録の際に、アナウンサーは性的指向がデリケートな問題であることを認識し内容に引っ掛かりを感じています。にもかかわらず、アナウンサーは統括プロデューサーを信頼していたこともあり異議を唱えることはしていません。
こうしたことから、同じ分業でも、報道系では制作の過程に携わる誰もが意見を言い合う文化がある一方で、情報バラエティー系ではそれぞれの仕事が個人作業で、他人の仕事にいちいち口を出さない慣行があったのではないかと推し量ることができます。「事なかれ主義」とか「無責任の体系」などと言い表せる状況だと思います。
委員会決定を読んで思い出したのは以前読んだ、地方紙の編集現場に関する論文でした。大石裕、岩田温、藤田真文『地方紙のニュース制作過程─茨城新聞を事例として─』(2000年、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要)です。
茨城新聞は他の多くの日本の地方紙同様、取材網を置いていない地元以外のニュースは共同通信からの配信記事に依存しています。編集室内には随時、共同通信から配信記事に関する情報が音声で放送されており編集者らは常にこの放送に注意を払っています。そのうえで編集室内の慣習が次のように紹介されています。
最終的な責任の所在は面担デスクと総合デスクにある。しかし、特定の担当者が専権的に記事の取捨選択を行うのではなく、記事の重要性に注目したデスクが、横並びで他のデスクに働きかけて、記事としての採用を求める点に特徴がある。ニュースの取捨選択は、特定の個人の主体性に委ねられているのではなく、複数のデスクの間の間主観的な行為による
つまり紙面の素材たる共同通信の配信記事について、編集室にいる者は担当にかかわらず自由に意見を交わすことができるということです。これは「ten.」の報道セクションの制作過程に類似しています。
こうした自由な意見交換が可能な場は、ニュース制作に対してどのような影響を与えるのでしょうか。
デスク間、編集部員間の会話が、互いのニュース価値の現状認識、新聞読者のニュース価値に関する認識を交換することに役立っているのである。そして、何がニュースとしてふさわしいかについての認識、さらにはどのような社会像を個々のスタッフが抱いているかについての認識が共有される状態が保たれているといえる。(中略)しかも、デスクや編集部員の間で自由に交わされる会話がメディア組織におけるニュース価値の生成と継承の役割をはたしており、それはオン・ザ・ジョブ・トレーニングの機能も遂行している。
大石らの分析はニュース制作の分析であり、今回問題になったバラエティー企画にそのまま援用することがどこまで許されるのかは分かりませんが、あえて「ten.」の制作現場に当てはめてみると次のようなことが言えるのではないでしょうか。
自らの責任範囲を超えたとしても、内容に違和感を感じたときには意見を出し合うことが当たり前だという文化が制作現場にあれば、性別や性的指向に関する問題を人権問題としてスタッフが理解する機会は増えていたのではないか。そしてそういう慣習と機会を得たスタッフらが編集に関わっていれば、今回のVTR編集の過程でスタッフらが持った違和感は具現化され、放送に至るのを止められたのではないか。
私はこのように考えると、「ten.」の問題は決してマスメディアだけの問題ではないように思うのです。組織が仕事に当たるとき、メンバーのコミュニケーション不全、セクショナリズム、事なかれ主義が仕事の質を下げてしまうということは、どんな職場でも起こりうる「あるある」なのではないでしょうか。
今回の「ten.」の問題についてSNSでは、報道とバラエティーという区分けに、放送内容の公共性と視聴率の追求のトレードオフを重ねることによって、ニュース番組にバラエティー要素を同居させていること自体を批判する向きも少なからず見ました。
たしかに報道とバラエティーでは、備えるべき公共的要素に質的・量的な差があるとは思います。バラエティーを番組に取り込むことで、報道パートの公共性も劣化してしまうという現象が起こりうる懸念も理解できます。また社会問題に日頃から接する報道セクションと、必ずしもそうではない情報バラエティー系セクションでは人権意識の豊かさに差が生じることもあるでしょう。
だとしても今回の放送内容は現代社会において、バラエティーなら許されるという類のものではありません。BPOも「時代の課題へのアンテナの感度が著しく欠如しており、人権を尊重すべき放送局としては、深刻な問題と言わざるをえない」と厳しく批判しています。
一方で不適切な内容が放送に出ることを止められなかったという、セキュリティーの過程に着目すると報道とバラエティーの演出面における二項対立の語りでは回収し切れない要素があると、BPOの委員会決定を読んで感じました。そしてここで社会が得た教訓は決して、ニュース制作や放送業界の現場のみにとどまらず、あらゆる組織が参照すべきものであると私は思います。