役者の顔が魅力的なドラマはやはり見ていて面白い。単に美しいかどうかということではなく、その顔の表情や存在感の意味を、観客側が思わず読みとろうと身を乗り出すうちに見惚れてしまう、そういうタイプの魅力である。
202X年、経済の没落を迎えた日本で総理・鷲田は、若きリーダーたちに政治AI「ソロン」を駆使しながら政治を行わせる実験プロジェクト「UA(ウーア)」を、地方都市・青波市で立ち上げる。
ソロンが選んだ“総理大臣”は17才の高校生・真木亜蘭(神尾楓珠)だった。リアルの日本政府からは官房副長官の平清志(星野源)をプロジェクトマネジャーとして送り込み、“閣僚”3人、そして真木が指名した“総理補佐官”の茶川サチ(山田杏奈)らとともに急進的な改革を進めていく。
SF・政治・青春という3要素が絡むドラマではあるが、全5回という話数の制約もあるのかストーリーの深みとしてはいずれの要素をとってもやや消化不良であるのは否定できない。特に、政治ドラマとしての深みや、人間とAIの関係を巡る倫理的問題に関する洞察は極めて甘いと言って良い。
むしろ本作の主題は〈「ただしく在る」ことは人間の実存と本質的に矛盾する。たとえ権力や立場によるしがらみがない若者であっても――〉ということだ。
平はおそらく、理想に燃えた若き頃の自らを真木に重ねる瞬間があっただろう。真木に接する際の父性が前面に出る平と、もはや17才の時の自分にあったものが失われた現在にあって自らの実存を問うときの平とでは、表情の差異こそ紙一重にもかかわらず、その紙一重がとても雄弁で説得的で魅力的なのだ。星野源の新境地と言って良い。
とはいえ真木が、まっさらなキャンバスのような清廉な存在かと言われればそんなことはない。たとえばサチを“補佐官”に選んだのも、純粋に政治的理想に共鳴したからというわけではなかった。いじめられていた幼い頃に唯一優しくしてくれた、今は亡き雪にそっくりだったという極めて業の深い理由が先立っていたことがわかる。真木は、雪のあらゆるデータを注ぎ込んで「生き返らせた」AI・スノウと、密かに「対話」を重ねて続けていたのだ。
この矛盾と、それゆえの異形さが神尾の出で立ちによってはっきりとわかる。映画『彼女が好きなものは』でも見せた、神尾の独自固有性が遺憾なく発揮されている。
人間の実存の矛盾を否定せず、しかし「ただしく在る」という理想を鼻白むでもなく、自らのうちに同居させながら生きて行くしかないという結論を、最も理想に急進的に思われた“財務経済大臣”の雑賀に語らしめるのは心憎い。河合優実はその難役をやすやすとこなしてみせる。自分の靴を磨いていた平が、真木の靴を磨くという着地もおそらく「ただしく在る」こととの向き合い方に平が一定の結論を出せたことの象徴だろう。吉田玲子の脚本おそるべしである。
そして、サチとスノウの二役を演じた山田杏奈には圧倒された。第1話からエンディング映像に出ていたのはスノウだったことが後で分かるのだが、エンディングもスノウも最初は山田と気付かず、クレジットを見て二役だったのか!と驚嘆したくらいだった。スノウ暴走を前にしたサチの狼狽は、観客の心をかき乱したことだろう。
画作りも、NHKドラマらしいクオリティーの高さがあり、劇伴やエンディングテーマも物語世界にぴったりハマっている。特にエンディングテーマのボーカルである塩塚モエカは、ボーカリストとして自らの声に極めて自覚的なミュージシャンの一人であるが、そんな彼女がスノウの声も担当し、見事な出来だった。
鑑賞前に期待していたゴリゴリの政治ドラマ的なイメージとは違うドラマではあったが、文字どおり「役者揃い」の名作である。