Deprecated: 関数 wp_targeted_link_rel は、バージョン 6.7.0 から非推奨になり、代替手段がなくなりました。 in /home/tomatocattle6/www/wp/wp-includes/functions.php on line 6114

Deprecated: 関数 wp_targeted_link_rel_callback は、バージョン 6.7.0 から非推奨になり、代替手段がなくなりました。 in /home/tomatocattle6/www/wp/wp-includes/functions.php on line 6114

なぜNHKの四国統括は松山なのか

2019年12月17日

松山に生まれた逓信局と地方行政協議会

 大阪中央放送局松山分室ができる1か月前の1943年11月1日付の朝日新聞(東京)朝刊2ページには「整へた各省の戦時機構」という記事が載っている。各省の組織改正内容をまとめたもので、中見出しに「気象事務も管理 新潟・松山に新逓信局 運輸通信省」とある。

 この日、鉄道省と、郵便や通信を所管していた逓信省が統合され「運輸通信省」が誕生する。これに伴い省の地方機構を12月1日付で改正し、新潟と松山に逓信局が新設されることが決まったと記事は伝えている。豊原にはこれに先立つ3月31日に、樺太の内地編入に合わせる形で設置された。

 記事は新潟、松山両逓信局の新設を「地方行政機構に即応するため」と説明した。この機構こそ「地方行政協議会」である。地方行政の連絡調整を図るための機関として、1943年7月1日、内地(樺太を含む)の9地方に置かれた(表1)。協議会には各ブロック内の府県知事や北海道・東京都・警視庁各長官と、財務局長、地方燃料局長、そして逓信局長など国の出先機関のトップが参加する。協議会長には内閣総理大臣が各府県知事・道都長官から1人を指定し、会長が所在する都道府県庁に協議会を設置することになった。


(表1)地方行政協議会の区割り  ◎印は協議会設置道府県。『官報』1943年6月30日付より。

北海◎北海道、樺太
東北青森県、岩手県、◎宮城県、秋田県、山形県、福島県
関東茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、◎東京都、神奈川県、山梨県、警視庁
東海岐阜県、静岡県、◎愛知県、三重県
北陸◎新潟県、富山県、石川県、福井県、長野県
近畿滋賀県、京都府、◎大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県
中国鳥取県、島根県、岡山県、◎広島県、山口県
四国徳島県、香川県、◎愛媛県、高知県
九州◎福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県

 府県レベルを超えた地方行政として、道州制の先駆けと位置付けられることもあるが、現在の地方分権的な概念とは違い、府県間の利害を調整してあくまでも中央の国策を強力に執行していくための集権的機関だった。戦局の悪化で物資が乏しくなる中、協議会長は管内の知事らに必要な指示をする権限を持つことになった。

 この地方行政協議会は四国地方も一単位となり、愛媛県に設置されたため、松山にはさまざまな国の出先機関が紐付いて新設されることになった。愛媛県史は次のように記している。

「愛媛合同新聞」昭和一八年一二月三〇日付は、社説「県紙としての歳末辞」で、昭和一八年の最大記録は我が愛媛県が四国地方行政協議会の会長所在県となったことであり、この機構に付帯して逓信局・財務局・軍需省監理部・大阪放送局松山分室などが設置されたことは本県及び県都松山市を飛躍発展させることになったと論じ〔た。─引用者注〕

愛媛県史編さん委員会編 (1988)『愛媛県史 近代 下』愛媛県、pp.624~625

 なぜ、四国地方行政協議会は愛媛県に置かれたのか。地方行政協議会は、1940年に置かれた「地方連絡協議会」の区割りと幹事府県を引き継いでいる。

今回の地方行政協議会は地方連絡協議会の関係区域を基礎としたもので、従来これの幹事をつとめていた府県に地方行政協議会が置かれることとなる

『朝日新聞』1943年6月29日付朝刊(東京)1ページ「地方行政の戦時改編断行」

 地方連絡協議会も地方行政協議会同様、府県ごとのセクショナリズム打破を狙い、相互連絡の機関として作られたが、各府県を統率する強権、統制力は弱く、幹事府県は「確固たる制度的法制的な基礎の上に立つものではなくて、協議会議事の円満なる運営のためのものであり、多分に当番的色彩が濃厚であったことは否定し得ない」(鵜沢1944、p.143)ものだった。

 さらに地方連絡協議会には府県のみが参加しており、地方行政協議会と違って財務局や逓信局など国の出先機関は関与していない。これらの調整機関は別に地方各庁連絡協議会が「生産力の増強に必要と認められる」 (鵜沢1944、p.128)12道府県に置かれたが、設置県に四国4県は含まれなかった。こうした2元体制ゆえ、逓信局が松山に置かれるのは地方行政協議会の設置を待たねばならなかったのだろうと思われる。

 なぜ地方連絡協議会が愛媛に置かれたのかは、愛媛県史、内務省史をはじめ、地方連絡協議会、地方行政協議会などに関する論文、はたまた中央─地方関係について研究した政治学の文献などにも当たったが、今のところよく分からない。

 まとめるとこうだ。

  • NHKが松山に四国の拠点を置いたのは1943年、放送を所管する運輸通信省の出先機関である松山逓信局が置かれたから
  • 松山に逓信局が置かれたのは、戦時下に府県の利害を調整して国策を遂行するための地方機関として「四国地方行政協議会」が愛媛県に置かれたから
  • 四国地方行政協議会が愛媛に置かれたのは、地方行政協議会が前身の地方連絡協議会の区割りと幹事府県を引き継いだから

 ちなみに松山と同時に北陸ブロックの拠点機能を持った新潟放送局は、1945年5月1日、一般の放送局に格下げになった。これは北陸地方行政協議会が同年2月1日に廃止されたことを受けたものと思われる。北陸行政協議会の各県は、新潟と長野は関東信越地方、富山と石川は中部地方、福井は近畿地方の各協議会に入ることとなり、軍管区と対応する形になった。

(次ページへ続く)