高松移転を止めた人々
のちに運輸通信省からは逓信院が分かれ、逓信省、郵政省などを経て現在は総務省が引き継いでいる。地方機構の逓信局も現在は総務省総合通信局となり、四国総合通信局は今も松山に置かれ、よってNHKの四国拠点も松山にあり続けている。ちなみに旧郵政省系の民営化会社であるNTT西日本の四国事業本部と日本郵便の四国支社も松山だ。
さて、ここで疑問が出てこないだろうか。なぜ四国地方行政協議会の設置に伴い各省の出先機関が松山に置かれたのに、現在はそのほとんどが高松にあるのか。なぜ総合通信局だけ松山なのか。
実は四国地方行政協議会自体、終戦間際の1945年4月21日に香川県へ移っている。移転の理由は「軍管区の関係」(愛媛県史編さん委員会編1988、p.630)とか「交通その他の事情」(朝日新聞1945年4月21日)などと説明されている。協議会長も香川県知事になったが、ナンバー2で協議会専任の役職である参事官を務めてきた土肥米之が、移転とともに愛媛県知事へ昇格したため、愛媛新聞は「四国行政協議会が香川に移っても土肥知事が在任する以上四国の指導県としての立場は変わらないだろうと期待した」(愛媛県史編さん委員会編1988、p.631)という。
しかし財務局や海運局など出先機関は行政協議会とともに高松へ移転していく。逓信局も移転の可能性がささやかれる中で、松山にとどめさせたのが当時の局長加藤雄一だった。山崎(2006a)が伝えている。
それによると当時、本土決戦も視野に入る中、政府は一般家庭の電話を回収し軍が使えるようにしたため、松山逓信局も四国の電話機の70%を回収しなければならなかった。行政協議会の高松移転は大量の回収作業のさなかに行われ、1945年5月には逓信院総裁が逓信局も移転するよう命じたが、加藤はここで移転すれば回収に滞りが生じ、連日の空襲の中に大所帯で移転すれば戦争遂行に支障をきたすと移転に反対。陳情の末、「差し向き」、つまり戦争終結までは移転が見送られることになった。
しかし四国地方行政協議会長である香川県知事は、逓信院総裁に移転を要求。いったんは再度移転命令が下り、加藤は激怒。5月28日には辞意を示す電報を総裁宛てに打った。
事態が変わるきっかけは同31日、加藤があいさつ回りで香川・善通寺師管区司令官の山岡重厚中将を訪ねたことだった。山岡は逓信局移転への協力を求められ、気色ばんで反対した。米軍がいつ上陸するやも知れない今、電話の回収が遅れては困る、移転は非常識だ。山岡の意見はその後陸軍省本省に伝えられ、陸軍次官が逓信院総裁に強く移転中止を申し入れた。結果、6月22日には広島の第2総軍司令部を通じて松山逓信局に移転中止が伝えられたという。
もし、このとき松山逓信局長が加藤雄一でなかったならば、果たして松山に逓信局が残ったであろうか。今日の四国郵政局・NTT四国支社・NHK松山放送局の四国統括機関も高松に移転していたかも知れないであろう。
山崎(2006a)p.7
戦後の1949年、逓信局は郵政局と改称していたが再び高松移転論が浮上した。山崎(2006b)が経過を伝えている。
それによれば、松山市は反対運動を展開したが郵政省は移転論に傾きつつあった。そこで1951年、当時の黒田政一市長は戦時中の逓信省出身で郵政事情に詳しい羽藤栄市副知事に相談した。羽藤は善通寺の軍の建物だったところにある郵政研修所の松山誘致を提案する。研究所を松山市側で建てて郵政省に貸す形を取れれば、高松移転は難しくなるだろうという見立てだった。
予算的問題はあったが県、市、伊予銀行、四国商工会議所などで後援会を作って資金を集めることにし、郵政省も説得。研修所誘致に成功し、郵政局の高松移転論は消えたという。
平成に入ってからも、松山駅前の再開発に伴う庁舎移転の際には高松移転が取り沙汰され、愛媛県議会が2010年に松山市内存続を求める意見書(愛媛県議会2010)を可決している。もし松山市外に移転すれば「四国総合通信局を核として発展してきた当地の情報通信分野や地域経済に甚大な影響を及ぼすことは必至である」とした。情報通信分野には当然NHKも含まれるだろう。
人口や県内総生産では未だ愛媛県・松山市が首位だが、交通の便や行政機関集積の実績では高松が優位なのは否めない。そもそも道州制議論でも四国を単独ブロックとするか、中四国で一つのブロックにするかは意見が分かれ得るところだ。
本稿では戦中から連続する情報の都としての松山の歴史を垣間見た。 地方分権と「選択と集中」が進む現代において今後も松山が四国の情報通信拠点でありつづけられるのかは、神のみぞ知るところである。
参考文献
- NHK放送文化研究所(2001)『20世紀放送史〔年表〕』日本放送出版協会
- 『朝日新聞』1943年6月29日付朝刊(東京)1ページ「地方行政の戦時改編断行」
- 『朝日新聞』1943年11月1日付朝刊(東京)2ページ「整へた各省の戦時機構」
- 『朝日新聞』1945年4月21日付朝刊(東京)1ページ「行政協議会長、親任官に」
- 『官報』1943年6月30日付
- 愛媛県議会(2010)『総務省四国総合通信局の松山市への存続に関する意見書』愛媛県議会ホームページ
- 愛媛県史編さん委員会編 (1988)『愛媛県史 近代 下』愛媛県
- 鵜沢喜久雄(1944)『広域地方行政の常識』九鬼書房
- 日本放送協会編(1932)『ラヂオ年鑑 昭和7年』日本放送出版協会
- 樋口喜昭(2014)『初期のラジオ放送にみるローカリティの多面性』マス・コミュニケーション研究、84巻、pp.67〜88
- 村上聖一(2017)『放送の「地域性」の形成過程─ラジオ時代の地域放送の分析』放送研究と調査、2017年1月号、pp.28~47
- 山崎善啓(2006a)『逓信局を松山に残した気骨人 第二代松山逓信局長 加藤雄一』松山市文化協会「まつやま人・彩時記」松山市文化協会、pp.6~7
- 山崎善啓(2006b)『郵政局松山存置・郵政研修所松山誘致の功労者 羽藤榮市翁』松山市文化協会「まつやま人・彩時記」松山市文化協会、pp.73~74
編注
引用文は旧仮名遣いを現代仮名遣いに、旧字体は新字体に直しました。
おわびと訂正(2019年12月18日)
地方行政協議会の設置日を6月30日としていましたが、7月1日の誤りでした。根拠法令の地方行政協議会令は6月30日付で裁可されていますが、公布日は官報に掲載された7月1日です。訂正しておわびします。