先日友人と喋っていて一つの結論に達した。「西野カナは天才だ」というものである。
西野カナといえば恋人に会いたくて震えたかと思ったら、数々の無理難題を恋人に要求してくる女性シンガー。モテない男の立場からすれば、もはや狂気だ。
以前勤めていたコンビニエンスストアでは、有線の音楽が店内に流れていた。ちょうど「トリセツ」が発表された頃は、一定の間隔で耳に入る。夜の閑散とした店で「これからもどうぞよろしくね」と怨念のごとく言われるからたまったもんじゃない。
しかし認めざるを得ないのは、西野カナの曲は耳に残る。侵略行為だ。気が付くと「な~にが、こんな私だけど黙って許してね、じゃバーカ」といきり立つ僕の姿が居るから恐ろしい。嫌いと好きとは裏返しだ。
こういう話を友人としながら、ふとTBSラジオ・東京ポッド許可局の「ラッスンゴレライ論」の回を思い出した。マキタスポーツ曰く、ラッスンゴレライの特徴は、リズムと歌詞が倒錯を起こしていることだという。
音楽用語でシンコペーションというのがある。拍の食い込みを指す言葉で、例えば普通の四拍子2小節を「タンタンタンタン/タンタンタンタン」と数えるところを「タンタンタンタタ(/)ーンタンタンタンタタ(/ーン)」のように拍をずらすことでグルーヴが生まれるというものだ。
田中シングルのセリフ「ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ、説明してね」は拍通りに歌っているが、歌詞の内容は意味不明で、いわゆる「ボケ」にあたる。一方はまやねんのセリフ「ちょっと待てちょっと待てお兄さん」はツッコミにあたるから詞の内容は真っ当なのに、シンコペーションが起きていて拍は言わば破調を起こしている。それが、リズムと歌詞の倒錯、というわけだ。
翻ると西野カナも倒錯を起こしているのではないだろうか。ここでは、歌詞の内容と歌の上手さである。言っている詞の内容は(女性の受け取り方は別として男性にとっては)支離滅裂で数多の要求を快諾するのは難しい。ところが西野カナ、歌が上手いのだ。変なことを長々と連ねても、結局サビで「これからもどうぞよろしくね」と美声で歌われてしまうのだから、もう白旗を振るしかない。歌の上手さは強い武器だと、西野カナから教わったのである。
するとこの逆、つまり曲は良いのに歌がそこまでというミュージシャンを考えてみた。真っ先に思いついたのがクリス・ハートである。
彼がテレビの画面に出てくる度に「コイツ大して歌上手くないよなあ」と家族で話をしている。以前やっていた、BSプレミアムで安全地帯やチューリップの昔の武道館ライブの映像を放送する番組の途中、クリス・ハートの武道館ライブに臨む様子に密着するコーナーがあった。番組サイドとしてはミュージシャンにとっての武道館の存在感を見せたかったのだろうけど、せっかく名演の映像に酔いしれている最中にクリス・ハートが登場して興醒めしたのを覚えている。
カバーシンガーとして売れるためには抜群に歌が上手いのが必要条件だと思っていた。現にMay J.は、松たか子や神田沙也加が上手すぎて失笑の対象になってしまった感はあるが、それでも歌は上手いと思う。町内会のカラオケ大会にゲストとして出てきたら、普通に歌を聞きたい。
でもクリス・ハートはゲストというより優勝者という感じがする。そりゃ上手いけど金払って聞きたいかと言われれば、同意しかねる。まあ大体、プロデビューのきっかけが日本テレビの外国人版のど自慢だもんな。
先述の武道館ライブは結構客が入っていて、みんなそんなにクリス・ハート聞きたいのか? と驚いた記憶がある。日本の文物に外国人が惚れているのを見て、日本人が嬉しがる構図なんだろうか、とか思いながら、早くチューリップのライブ見せて〜とイライラした。
僕は日本の心を歌ってもらうなら、クリス・ハートよりも西野カナにお願いしたい。「上を向いて歩こう」くらいなら西野カナは結構すごいんじゃなかろうか。でもそれじゃ面白くないので「兄弟船」とか「俺ら東京さ行ぐだ」とか「冬のリヴィエラ」とかやってほしい。西野カナのこぶしを聞きたい。クリス・ハートはトリセツでも歌っておけ。