いわゆるTBSビデオ問題を受けて同局が放送した検証特番「証言」を見たある作家は、特番を「これは報道番組ではなくワイドショーだ」と当時の新聞に書いた。
報道番組とワイドショーはどう違うのか。私が思うに、報道の最大の役割は「私たちを取り巻く様々な環境を監視すること」にある。政治、経済、人権、自然などの環境が、これ以上悪化したり退行したりしないよう、「真実の情報」を武器として監視するのが報道の使命だ。
一方、ワイドショーは基本的にはこの環境監視を前提としていない。芸能や事件や生活などに関する種々の情報を、視聴者の自由な受け取り方にゆだねているにすぎない。
別な角度で見ると、ワイドショーが「たたかわなくてもいい番組」であるのに対し、報道番組は「たたかわねばならない番組」ともいえる。もんじゅ事故や薬害エイズ問題が示すように、情報開示の遅れた社会では、必要な情報を入手すること自体が、すでにしてたたかいである。
朝日新聞大阪本社版1996年5月6日付朝刊オピニオン面「論壇 検証番組もワイドショーのTBS」より)
報道の使命としてよく言われる「権力の監視」という題目は、的が絞られすぎた感じがあり、言葉がうわ滑る感じがする。「私たちを取り巻く様々な環境を監視すること」という報道の役割の定義は、違和感が若干ほぐれ、僕は腑に落ちた。
ワイドショーは確かに、スタジオで出演者がわいわい話すのが基本形で、良くも悪くも「送りっ放し」だし「たたかう」必要もまあない。ワイドショーにそれを求める視聴者も少数派だろう。
その点、この作家は「報道番組のコメンテーター」としての役割を全うしたと言える。一般人に性別をしつこく確認し、胸を触ったり保険証を出させたりする内容の街ロケ企画に対し、放送ですぐさま「著しい人権感覚の欠如」と非難した。若一光司さんである。
読売テレビの報道番組「かんさい情報ネットten.」の問題。これが報道番組でなければ許容されたのかと言われれば、このご時世、アウトだろうとは思う。しかし週明け早々、報道局長まで生放送に出てきて謝罪するという対応になったのは、報道番組だったからと考えるのが自然な気がする。
僕は、ニュースを扱う番組の中に、報道的な手法と、バラエティー的な手法が混在すること自体は即座に否定されるべきことではないと考える。ジャーナリズムの一丁目一番地は「記録」にあるわけだが、特にローカルを題材にする場合は、大文字の権力者の動きだけでなく、地域に住む人々の生活自体も、記録する価値のあるものとなる。関西テレビ「よ〜いドン!」の人気コーナー「となりの人間国宝さん」は、報道という手法は取っていないが、無名の人の生活を記録して地域のアイデンティティーを掘り起こすという意味で、立派なローカルジャーナリズムだと思うのだ。
ただ若一さんの定義に従えば、報道番組は「たたかう」ことが求められる。そうした「たたかい」の営みを否定するようなものは、いくらなんでも報道番組の中に共存できない。
その点、週明けの謝罪の中で小島康裕・読売テレビ解説デスクが「当該のVTRは(略)私たちが普段から問題意識を持って取り組んでいる差別や偏見を、助長するものだった」と反省しているのは、正しい認識だと思う。
逆にバラエティー的手法を短絡的に否定し、形だけ「硬派」にあつらえて満足するようでは、単なる報道ごっこに堕するしかないのではないだろうか。どんな番組が「善きローカルワイド」なのか、視聴者としても改めて考え直したいところだ。