伊藤亜紗『手の倫理』

伊藤亜紗『手の倫理』

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 愛する人の体に「ふれる」ことと、痴漢が見ず知らずの人の体に「さわる」ことの間に決定的な違いがあるように、人間は接触を区別し、相互的・人間的なかかわりとしての「ふれる」と、一方的・物的なかかわりとしての「さわる」を使い分けています。例えば、介護などケア的側面の強い場では「ふれる」ことが求められ、科学的に体の状態を診て不調の原因を明らかにする医療現場では「さわる」ことがむしろ必要だったりします。

 人間が人間にさわる/ふれるとき、その接触面には必ず「人間関係」があり、それは、子育てから、スポーツ、性愛、そして看取りに至るまで、人生の重要な局面にしばしば存在します。場合によってはそれが暴力にエスカレートしてしまうことも。

 そうした接触面において人は信頼したり緊張したり、交渉や譲歩をしたりするわけですが、それはどのように行われるものなのか。これを「手の倫理」と呼んで考えていくのが本書です。六つの章ごとに一つのテーマを扱っていますが、その記述がどれも丁寧であり、また私たちの身の回りの生活にあふれるリアリティーを題材としていることもあって、私の今年の読書体験の中では随一のエキサイティングさがありました。

 第1章では「倫理」が「道徳」と異なり、普遍的・画一的なルール・価値に沿って行動することが困難であるときのためらいや戸惑いを扱ってきたことを示します。「一般」の存在しない倫理は、さわる/ふれることがもれなく他人に口をだすことであり、相互主義を決め込みながらさわる/ふれることなど不可能であるという意味で、接触と関わりの深いものと言えます。

 第2章では西洋の哲学が伝統的に、視覚を上位に置いて触覚を劣った感覚と位置付けてきたことを紹介します。西洋哲学は「さわる」に偏った認識論を展開してきており、著者は「ふれる」をも議論の対象に含めていくことで触覚という感覚が持つ可能性を開いていきます。

 この章では特に、触覚を低級感覚とする価値観のうち、認識するためには必ず「距離ゼロ」で対象に触らなければならないリスクを抱えている点に着目。ドイツの哲学者ヘルダーの議論を引きながら、触覚がむしろ「距離マイナス」の性質を持つことを強調します。他人の体にふれると、その外形や質感だけでなく、ふれたことに対する反応によって相手の意思をもうかがえることを考えると分かりやすいでしょう。

 そうした、対象の内部へ入り込む性質をもつ接触という行為は、それゆえにリスクを伴います。だからこそ他人にふれるときに人は慎重になるわけですが、「ふれる」と「ふれられる」が相手を傷つけないように同時に成立するためには「信頼」が欠かせません。この「信頼」に関する考察が第3章で展開されます。

 「信頼」と「安心」は何となく似たところのある言葉ですが、社会心理学の山岸俊男は「針千本マシン」という架空の機械を使ったたとえ話で二つの違いを説明します。うそを付くとのどに針千本が流し込まれる機械を埋め込まれた人は、うそを付かなくなります。この人に関わる他者は、その人はうそをつかないと「安心」はしますが、果たして「信頼」するかと言われるとしないのではないでしょうか。

 「安心」は想定外の状況が起こる可能性が極めて小さく、状況をコントロールできる状態に抱くものであるのに対し、「信頼」は社会的不確実性が存在し、痛い目に遭う可能性があるにもかかわらずそれでもその選択肢に賭けるありようを指す言葉なのです。

 ここで著者は視覚障害のある女性のエピソードを紹介します。介助者なしで盲導犬とだけで旅に回る彼女は、見ず知らずの人に道を聴いたり、サポートを求めたりします。その人がもし悪い人ならば加害を企てるかもしれない、自分の意図に反して過剰に障害者であることを意識してくるかもしれない、にも関わらず、だまされる覚悟をしながらも相手に委ねる。そうした行為を続けることで彼女は、介助者の手を借りない旅を実現させてきました。

 ゆえに結婚してから実に3年間も、夫に対して「安心」することができず、つねに不確実性を覚悟した「信頼」の緊張状態が続くことになったといいます。

 第4章では触覚が「時間のかかる感覚」であることが、コミュニケーションの可能性にどのように影響するかを論じます。視覚は全体を一瞬にして認識できるのに対し、触覚は部分的な認識を積み重ねていくことがメインとなるため、認識に時間がかかります。

 こうした短所は、コミュニケーションにおいてはむしろ長所となり得ます。障害者運動では、健常者によるパターナリスティックな振る舞いが批判されてきました。道案内ではここに段差がある、ここを曲がればコンビニがある、といちいち情報を介助者が被介助者に「伝達」することに重きが置かれ、障害者の自己決定を脅かしてきたというわけです。

 しかし熊谷晋一郎がかつて脳性まひのリハビリを受けていたときのエピソードは、接触がそうした役割固定の伝達型コミュニケーションから、その場で作り上げていく生成型のコミュニケーションへと転回させる可能性を示唆します。トレイナーが腕を引っ張ってくると同時に、トレイナーも熊谷の腕の伸び方を感じながら引っ張り方を調節している。この営みは、トレイナーが能動で熊谷が受動、と言い切れないものがあり、まさに相互に内部に入り込んでいます。

 第5章は、さらに踏み込んで、接触を媒介に、能動受動の関係が消えて「共鳴」が起こるというブラインドランについて述べられます。目の見えないランナーと目の見える伴走者が組になって走るブラインドランでは、2人は直接触れ合うのではなく、輪っかにしたロープの別々の箇所を握って走ります。

 始めは目隠しした状態で走ることなどとてもできず、足がすくんでいた著者は、「ええい、どうにでもなれ」といった覚悟をもって伴走者に「信頼」を置くことによって、走ることが可能になります。ブラインドランの興味深いところは、ランナーの緊張が伴走者にも伝わり相互に意識が行き来するところにあります。この意識のやり取りは、最速記録を出したのに全然へっちゃら、やその逆の感覚をもたらすこともあるといいます。「伝える」のではなく「伝わっていく」コミュニケーションがそこにはあり、接触した状態での人と人との間にある倫理は「あずけると入ってくる」ことが基本であることがわかります。

 ここまで、まなざしとは異なるコミュニケーションのあり方をひらく可能性を持つものとして触覚を捉えてきましたし、その倫理を探ってきたわけですが、第6章ではそれをちゃぶ台返しにするようなスリリングな議論が行われます。章題は「不埒な手」。

 第5章のブラインドランのような、私と私でないものの境界が曖昧になり、意識を超えたところでコミュニケーションがなされるとき、コントロールを失うという意味で接触は非倫理的な行為になってしまう懸念があります。

 介助者の経験を持つ社会学者の前田拓也は、介助の仕事を始めて間もない頃、セックスで女性の服を脱がそうと手をかけた瞬間に「介助に似ている」というフラッシュバックを体験し、興醒めしてしまったというエピソードを明かしています。前田はこうした現象を「フレームの混同」と呼び、セックスの文脈で理解すべきことなのに、同じ体がやっていることがゆえに、介助の文脈かもしれない、と混乱が生じてしまっているのだと分析します。

 これは困ったたぐいの混同ですが、認知症患者が孫の体を洗っているのに数十年前の自分の子供の体を洗っていた時にタイムスリップしているような感覚が起こるものもフレームの混同と解釈できます。フレームの混同を利用して、視覚障害者と健常者が、伝達型ではなく生成型のコミュニケーションをしながらともにスポーツ観戦にエキサイティングできるような仕組みを新たに作ろうとする試みもあるそうです。

 「不埒な手」はその状況にあるべきリアリティーとは別のリアリティーへとその人を導いてしまう恐れがあります。ときに暴力などにもつながるそれは、しかしその不道徳性ゆえに、道徳、あるいは時間や空間を相対化する力を持っている。このように著者は触覚の可能性を訴えます。

 手が「倫理」的存在であること。その不思議さ、力強さ、厄介さを、読むにつれてずんずんと理解することができる本書は、冒頭にも記したとおりエキサイティングな読書体験をもたらしてくれました。SNSで極端な言説があふれ、社会は新型コロナウイルスによる不安に包まれる中、倫理的であろうと日々戸惑いやためらい、迷いを続けている人は、本書から大きな示唆を得られるでしょう。

(講談社選書メチエ、2020年)

人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。 介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、 コミュニケーションは単なる情報…
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