アニメ制作会社京都アニメーションの第1スタジオ(京都市伏見区)が放火され35人が亡くなった事件で、京都府警が2日、犠牲者のうち10人の実名を公表しました。これを受けて新聞各紙は3日付朝刊で10人の名前を報じた上で、一部の社は実名報道についての「おことわり」やそれに類するものを掲載しました。
「社会全体の教訓」「35人の数字ではなく」…
筆者はこれまでに朝日、毎日、読売、日経、産経、京都、神戸、大阪日日の8紙を入手しています。全紙が10人全員の実名を報じ、うち朝日、日経、産経、京都、神戸、大阪日日の6紙が「おとこわり」などを掲載しています(神戸と大阪日日は共同電とみられる)。
また京都府警は公表にあたりこの10人の遺族から了承を得たものの、うち1人については公表後に遺族から匿名報道を希望する連絡があったと報道各社に明らかにしました。この旨を記事やおことわりで伝えているのは日経、産経、京都、神戸、大阪日日の5紙です。
このうち京都新聞は「続報では遺族の心情に配慮し、匿名にすることも検討します」と異例の文言を付け加えています。このような大きな事件で初報実名、続報匿名の対応を取るのは、被害者が性的暴行を受けた末に亡くなったり、被害者やその遺族が差別被害を受ける恐れがあったりする場合にはあります。しかし「おことわり」で方針を明記することは珍しいと言えます。
各社のおことわりは次のとおりです。
朝日
朝日新聞は事件報道に際して実名で報じることを原則としています。
犠牲者の方々のプライバシーに配慮しながらも、お一人お一人の尊い命が奪われた重い現実を共有するためには、実名による報道が必要だと考えています。それが、社会のありようを考えるきっかけにもなると思っています。
(1面、本記末尾)
日経
京都アニメーションの放火殺人事件で、実名公表を了承した遺族のうち1人から、京都府警を通じ匿名希望に変更するとの連絡がありました。日本経済新聞は事件報道に際して、その現実を社会全体で教訓とするため、原則実名で報じています。今回も事件の重大性などを考慮し、実名で報じる必要があると判断しました。被害者の方々のプライバシーには最大限配慮しながら、節度ある取材、記事化に努めます。
(1社面、本記末尾)
産経
◇おことわり 京都アニメーションの放火殺人事件で、実名公表を了承した遺族のうち1人から、京都府警を通じて匿名に変更したいとの連絡がありました。悲しみに暮れる遺族の方々が、取材や報道に接する度に苦しむ現実は重く受け止めます。その一方で、事実を正確に伝えるために、実名報道は欠かせません。犠牲となった方々が誰なのかわからない状態では、事実はあいまいなままです。犠牲になった方々は、人々に愛される作品をつくってきました。産経新聞は犠牲者一人一人を、「35人」という数字ではなく実名で伝える必要があると判断しました。犠牲者のプライバシーや遺族感情に最大限配慮し、公共性や公益性を総合的に判断した上で、節度ある取材、報道に努めます。
(1面、本記隣接)
神戸、大阪日日(共同電とみられる)
実名報道に関する見解
京都アニメーションの放火殺人事件で、実名公表を了承した遺族のうち1人から、京都府警を通じて匿名希望に変更するとの連絡がありました。事件・事故報道は、その現実を的確に伝え社会全体の教訓とするため、原則実名で報じており、今回も実名で報じます。犠牲になった方々は、多くの人に愛される作品をつくってきました。そうした一人一人の生前の姿を、「35人」という数字ではなく実名で伝える必要があると判断しました。社会的影響が大きい重大事件であることも考慮しました。ただ、プライバシーや遺族の意向には最大限配慮し、節度ある取材、記事化に努めます。
(1面、本記隣接)
京都
おことわり 京都府警は2日、遺族が実名公表を了承した犠牲者10人の氏名を公表しましたが、公表の後、1人の遺族が匿名希望に切り替えました。京都新聞者は、被害者の安否を正確に伝えるとともに、重大な事件を記録するため、従来の事件・事故報道と同様に実名で報じます。続報では遺族の心情に配慮し、匿名にすることも検討します。
(1面、本記隣接)
記事中で説明する社も
毎日新聞は総合面のサイド記事「過去にも非公表事例/高まる私的情報保護」という記事の中で同紙の見解に触れています。過去に警察などが犠牲者を公表しなかった事例としてJR福知山線脱線事故(死亡した乗客106人のうち4人)、相模原障害者殺傷事件(死者全19人)、アルジェリア人質事件(政府が一時死者全10人を非公表、のちに公表)などを挙げた上で、次のように記しています。
毎日新聞はこうした事件・事故の犠牲者について、事実を正確に報じて被害者の無念や遺族の悲しみを伝えるため、実名報道を原則としている。
なお公表に至る経緯を説明した記事としては毎日の記事「京アニ犠牲者10人公表/実名公表、極限の交渉」が最も詳しく、読み応えがあります。府警と京都アニメーション側で公表の方針についていったん整理が付いた後に、警察庁から延期の指示があったことなどが報じられています。また京都の「『遺族最優先』異例の対応/速やかな公表控える/『取材拒否』伝達も」は、府警幹部が捜査状況を報道に説明する際、遺族の心情を慮って嗚咽を漏らすこともあったと明かしています。
顔写真は各紙とも一部のみ掲載
今回実名が公表された10人の顔写真を全員掲載した社はありませんでした。取材で得られた分のみを掲載しているものとみられます。
写真は遺族が提供したものや、京都アニメーション関連作品のDVDや広報用ツイッターなどから引用したものが多く、他に出身大学のウェブサイトからの引用、提供元を明記していないものなどもありましたが、学生時代のアルバムから引用したのは読売新聞で1人分「中学校のアルバムから」とされているもののみでした。
識者談話から考える実名報道の意義
今回の府警の対応の是非は意見が分かれるところかと思いますが、いずれにせよ殺人事件に際した対応としては異例のものであり、それ自体がニュース性を持つことは間違いありません。前述の毎日のように、各紙も身元公表までの経緯を報じるサイド記事を載せていますが、この関連記事として識者談話が積極的に掲載されている印象があります。
8紙のうち朝日、大阪日日を除く6紙が記事中のコメント紹介を含めて、専門家のコメントを掲載。6紙で合わせて11人の専門家の見解が紹介されたことになります。内訳はメディア社会学系2人、メディア法や憲法など法学系から5人、被害者学から2人、ジャーナリスト1人、犯罪被害者遺族1人です。複数紙にコメントを寄せているのはメディア法の服部孝章・立教大学名誉教授(3紙)のみでほかは1紙ずつです。
メディアに対しては、犠牲者の身元にニュース性や報道に値する公益性を認めた上で、行き過ぎた取材を慎むよう求める論調が大半です。一方、警察が遺族一人一人に意向確認をした対応については「評価できる」(曽我部真裕・京都大学教授)とする意見もあるものの、法学系からは公権力の恣意的な運用を牽制する声が多く、被害者の立場からも支援態勢の構築を阻害するとの指摘が出ています。
筆者は個人的体験から被害者の実名報道には意義があると考える立場です。特に武るり子・少年犯罪被害当事者の会代表の「遺族も実名報道を通じて、同じ境遇にある他の遺族たちとつながることができる」という意見は、学生記者時代に災害遺族を取材した際に、遺族間の交流や、幅広い層の支援が生きる支えになっている方々を多く見たことと重なります。
また、日本の被害者学の第一人者である諸沢英道・元常磐大学学長が指摘するように、広く実名を公表することで弁護士会や医療機関、自治体などが関与しうる機会は大幅に高まることが考えられます。こうした多様な支援のつながりは、警察のワンストップ的対応でまかなうには限界があるほか、「郷里に戻った後の態勢づくりができなくなったりする」などの問題も起こります。
メディアの実名報道は、一般読者の目に見えないところで当事者の生活を支える一助となっていることもあり、一概に唾棄すべきものではないと私は考えます。メディアスクラムなどの弊害についてはジャーナリストの大谷昭宏さんが警察と報道機関の代表がともに遺族の意向を確認できる仕組みづくりを提案しているほか、服部氏が「報道機関同士で取材者の数を限定するなどのルールを設定し、配慮することが必要」と述べています。
犯罪被害者支援に取り組んできた武内大徳弁護士は2018年、日本記者クラブでの記者会見でメディア対応の最前線を語った上で、次のように強調しています。
被害者が明確に拒否してもなお実名で報道する場合は、なぜなのか、それに見合うだけの言葉を報道の皆さんが考えるべき。〈知る権利〉とか〈悲惨な事件を繰り返さない〉といった手垢にまみれた言葉では、もはや被害者は説得されない
「被害者報道を考える」(2) 武内大徳弁護士 ─日本記者クラブ会見リポート
この意味で各紙のおことわりは、現段階でのメディアの限界とも言えますし、実名報道の意義を短い言葉で語るのには無理があるということなのかもしれません。
以下、6紙の識者談話を識者の氏名五十音順に引用します。
識者談話一覧
新恵里・京都産業大学准教授(被害者学)
妥当で慎重な判断だ
京都産業大の新恵里准教授(被害者学)の話 警察が遺族のケアや支援にかかわる中で実名発表の協力を求めていたことを踏まえると、氏名公表が事件発生から約2週間を要したことは妥当で慎重な判断だと思う。被害者や遺族にとって事件は一方的に押し寄せてくるもので、まだ現実感がないのが実情だろう。悲惨な体験をして混乱した状況の中で、遺族が氏名公表について悩むのは当然だ。まだ氏名の発表に至っていない遺族の方々は、弁護士ら専門家の支援を得ながら焦らずに対応を考えてほしい。一方で、故人との向き合い方は時間の経過とともに変わることも多い。遺族の思いを社会で共有することは、遺族や被害者の孤立感を防ぐ大きな力となる。
京都新聞2社面
大谷昭宏さん(ジャーナリスト、元読売新聞記者)
ジャーナリストの大谷昭宏さんは「報道機関の役割は事件の社会性や意義、遺族の思いなどを報じることにある。発生当初は取材に応じられなくても、時間がたてば取材を受けることが可能になるケースもあるので、報道機関の代表者が警察と一緒に個々の遺族の意向を確認できる仕組みが必要だ」と指摘する。
京都新聞1面インサイド「『遺族最優先』異例の対応/速やかな公表控える/『取材拒否』伝達も」
音好宏・上智大学教授(メディア論)
遺族や被害者を取り巻く状況について、上智大の音好宏教授(メディア論)は「インターネット上では、被害者の私的な情報がどんどん流され、プライバシー保護の市民感情は増してきている」と指摘。京都府警が10人の身元公表を葬儀後にしたことについては、「国内外に大勢のファンがおり影響も大きい。静かに弔いたいという遺族感情にも配慮したのだろう」と対応を評価した。
毎日新聞総合面「過去にも非公表事例/高まる私的情報保護」文中
佐藤卓己・京都大学教授(メディア史)
ネットの誤情報問題
京都大の佐藤卓己教授(メディア史)の話 被害者遺族の意向を踏まえて氏名を発表する警察の方針は、事件の性質によっては従前にもあり異例とは言えない。むしろ問題は、警察による氏名の公表の前に、ネット上に誤った情報があふれることだ。個人が情報を発信できる社会だからこそ、メディアには誤った情報を検証し、正す役割がある。問われているのは報道側の姿勢だ。今回の事件は社会的に衝撃の大きい事件で、犠牲者の中には、アニメーション作品にクレジットが出てくる人もおり、公益性が高い人も含まれているだろう。情報社会の中でメディアは、実名報道する意義を示した上で、警察の発表に頼るのではなく、取材で得られた情報を基に犠牲者の実名を報じる判断をすべきだろう。
京都新聞2社面
曽我部真裕・京都大学教授(憲法・情報法)
京都大の曽我部真裕教授(憲法・情報法)は「警察発表に被害者遺族の意向が示されたのは評価できる。今回の事件はアニメ業界で有名な方も犠牲となっており、ニュース性は高い。会社側の匿名発表の要望は、遺族に取材が殺到することを避けたいという思いで理解できる」と話す。
京都新聞1面インサイド「『遺族最優先』異例の対応/速やかな公表控える/『取材拒否』伝達も」
武るり子・少年犯罪被害当事者の会代表
少年事件でわが子の命を奪われた遺族らでつくる「少年犯罪被害当事者の会」の武るり子代表は「近年はインターネットの普及もあり、実名報道のマイナス面ばかりが強調されてしまっている。しかし、遺族も実名報道を通じて、同じ境遇にある他の遺族たちとつながることができる。『報道されない被害』があることも知ってほしい」と指摘する。
産経新聞1面「発生から半月、実名へ配慮重ね」文中
田島泰彦・元上智大学教授(メディア法)
田島泰彦元上智大教授(メディア法)は、遺族に寄り添う姿勢は尊重しつつ「報道機関は警察が提示した遺族の意向を検証しようがない。警察が対応を示す方法は抑制的でなければならない」との見解を示す。遺族の取材拒否に関しては「時間が経過してから話したくなる人が出てくるはず。可能な限り、接点は残しておかないといけない」と話した。
神戸新聞3社面「遺族取材、警察が事実上制約/可否、条件 報道各社に伝達/専門家『検証に支障恐れ』/京アニ犠牲者10人公表」文中
立山紘毅・山口大学教授(憲法・情報法)
適正捜査か知るすべ失う
個人情報保護に詳しい山口大の立山紘毅教授(憲法・情報法)の話 警察は取材の条件に関しても遺族の意向を聞き取って伝えており、違和感がある。被害者のプライバシー保護を隠れみのに報道機関を萎縮させ、結果的に警察の捜査が適正かどうかを知るすべが無くなる。京都アニメーションが社員や遺族との関係を重視して、警察に実名公表を控えるよう要請したのは理解できる。一方、警察の対応は結果的に犠牲者の生きた証しを残したいという思いさえ途絶えさせてしまう恐れがある。
神戸新聞3社面
服部孝章・立教大学名誉教授(メディア法)
速やかな公表、原則
服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)の話「事件で誰が亡くなったのか、どのような人だったのかは社会が共有すべき公益性が高い情報で、事件を検証し、教訓を得ることにつながる。警察は速やかに実名を公表するのが大原則だ。今回の犠牲者に何の落ち度もなく、不名誉な死でもないのに警察が例外的な対応を取れば、臆測を呼ぶ恐れもある。報道機関が遺族感情に配慮して取材するのは当然で、実名報道の意義を社会に理解してもらう努力が今まで以上に必要だろう」
読売新聞2社面
服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)は「なぜあれだけの規模の火災が起き、35人も命を落としたのか。事件の全体像に迫り社会に教訓を伝えるためにも、被害者の実名公表や遺族、負傷者の証言に基づく検証が重要だ」と指摘。「報道機関は遺族らをより悲しませるような報道やメディアスクラムを慎み、被害拡大の要因などをさらに詳しく検証する必要がある」と話している。
日本経済新聞2社面「遺族の心情に配慮/府警、話し合い重ねる」
服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)は「犠牲者がどのような人生を歩んできたかを報じることは故人をしのぶ上でも大切だ」と強調。ただ、家族の命を突然奪われ、悲しみに暮れる遺族が、匿名の報道を望むのは自然であり、「遺族を含めた被害者は精神的なつらさを抱えている。取材を通して傷付けることがないよう、報道機関同士で取材者の数を限定するなどのルールを設定し、配慮することが必要」と、メディアにも慎重な取材を求めた。
産経新聞1面「発生から半月、実名へ配慮重ね」文中
諸沢英道・元常磐大学学長(被害者学)
非公表、遺族支援に影響
諸沢英道・元常磐大学長(被害者学)の話 なぜ身元公表にこれだけ時間がかかったか。公表で二次被害を受けるというマイナス面が強調されるが、支援態勢を構築できるメリットがある。警察だけが遺族や被害者の情報を持つ偏った状態は結果的に被害者を孤立させる。氏名が分からないと各自治体や医療機関、弁護士会が関われなくなったり、郷里に戻った後の態勢づくりができなくなったりする恐れがある。過去の事件では非公表が影響し、支援が行き届かなかったケースもある。
神戸新聞3社面
山田健太・専修大学教授(言論法)
山田健太専修大教授(言論法)は警察が直接、遺族と調整することを疑問視し「ソーシャルワーカーなどの専門職で構成された組織が担うべきだ」と指摘。「公権力による情報コントロールは、恣意性を挟む余地がないように厳格に運用される必要がある」と警鐘を鳴らす。
神戸新聞3社面「遺族取材、警察が事実上制約/可否、条件 報道各社に伝達/専門家『検証に支障恐れ』/京アニ犠牲者10人公表」文中
【編注】
▽2019年8月3日午後0時10分 京都新聞の内容を追加し、記事タイトルを差し替え
▽2019年8月3日午後9時30分 大阪日日新聞の内容を追加し、写真掲載状況、識者談話関連など大幅に追記。アイキャッチ画像を京都新聞の「おことわり」に差し替え。