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プラネタリウム不得意者は「言葉による補助」を期待しているか─身体論に感動共有のヒントを探る

2019年3月4日

視覚的な鑑賞への苦手意識

 「プラネタリウムのどういうところがいいんですか?」という挑発的な質問を、天文関連の仕事に若手として携わる知人らにしたことがある。確かに話しぶりを聴いていると仕事は楽しそうなのだが、「見る側としては何が良いのか」ということはいまいち言語化しにくいようだ。

 私の方は基礎知識もないような門外漢。縁あって「ソフィア堺」の天文台と、シゴセンジャーで有名な明石市立天文科学館では1、2度ずつ投影を拝見した程度だ。

 プラネタリウムの良さがいまいち分からないのは、私の特性も影響している。言語運用能力に比して、空間認識のような視覚情報の処理に関しては苦手。生活を顧みると、ラジオや音楽を聴いたり読書したりするのにはそれなりに時間を費やしてきたが、スポーツや美術の鑑賞には食指が動かなかった。

聴覚での「補助」は万能か

 日本経済新聞夕刊の連載「プロムナード」で面白い記事を読んだ。筆者の伊藤亜紗・東京工業大准教授は、身体論的なアプローチで障害について研究する美学者で、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』などの近著で知られる。

 1月29日の記事(リンク)は、どうすれば目の見えない人と一緒にスポーツ観戦を楽しむことができるのかを探る自身の研究を扱っていた。

 従来の発想では、見える人の楽しみ方を「正解」とみなし、視覚情報を聴覚や振動に変換することばかりに労力が割かれてきた。信号が青に変わると音が鳴ったりボタンが震えたりするアレだ。

 しかしこうしたアプローチは、情報を説明的に伝えることはできても、スポーツの興奮やその種目ならではの「質感」を伝えることは難しい。音声解説やデバイスは万能ではないのだ。

たとえばスキーのジャンプ。言葉で「踏み切りました」と伝えることはできるけれど、それだけではスキーが台を離れる瞬間のタメや、そこから空中に飛び出すときのふわりと伸び上がる軽さが落ちてしまう。

 記事を読んではっとさせられたのは、実は目の見えている自分ですら、この「質感」を理解できていなかったのではないかと思ったからだ。着地までの伸びや、着地の瞬間の緊張は見ていて感じたことがあるが、「台を離れる瞬間のタメ」とか「伸び上がる軽さ」なんて考えたこともなかった。

 プラネタリウムにも同じことが言えるのではないか。確かに星空を模した空間が「きれい」なものなのだろうと頭では理解するが、そこにどういう感動があるのかがいまいち分からない。

 よくある解説のパターンの一つに、星座の由来に関連した神話を紹介するものがある。織姫と彦星の話のように、星空のロマンを神話というデバイスで変換させるわけだ。しかしこの方法が、星空を眺めることのセンス・オブ・ワンダーの理解にただちに結び付くかどうかは疑問だ。

 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』では、障害者になる前後で友人とのコミュニケーションが変化したという中途障害者の体験が紹介されている。周囲は障害者の見えない世界を補おうとさまざまな情報を伝えようと努める。

 間違いなく善意の補助だが、一方で情報の伝達という理性的、説明的コミュニケーションへの偏重は、それまでの友人同士が共有していた、言葉にしにくい関係性を排除してコミュニケーションの距離を遠ざけてしまう。

 プラネタリウムにおける「話芸」的なアプローチのデメリットと通じる部分があるのではないか。

ヒントは「試合をもう一つ起こす感じ」

 伊藤さんたちは研究で「動きの質感」の再現に重きを置き、身の回りの日用品で種目独特の質感を表した。柔道なら、目の見える2人が手ぬぐいの両端を持ち、試合を見ながら上下させたり引っ張ったりする。目の見えない人は手ぬぐいの真ん中を持ち、試合の動きや攻防を上下左右する手ぬぐいから感じるという仕組みだ。

手ぬぐいの動きに体ごと翻弄されながら、選手同士の力のせめぎ合いや緩急を感じてもらおう、というわけだ。手ぬぐいは道着と素材が近いから、布の張りを表現しやすい。

この方法、試合を再現している目の見える側も、何だかとても楽しいのである。楽しい、というかだんだん本気になってきてしまう。実際の試合は映像の中で行われているのだけれど、布を引っ張り合っているうちに、選手が憑依(ひょうい)したかのように勝ちたくなってしまうのだ。伝える、というよりは、試合をもう一つ起こす感じに近い。

 目の見える側も見えない側も、柔道独特の緊張感や躍動感を体感するアイデアだ。「試合をもう一つ起こす」ことで、一方的な情報伝達ではなく、相互のコミュニケーションとして「一緒に楽しむ」ことができる優れものだ。

 こうしたアプローチがプラネタリウムでもできないだろうか。例えば、夜が更けてそれまで見えていなかった暗い星も見えるようになり、まさに「無数の星に包まれる」という流れの番組を見たとき、私はジェットバスとか炭酸泉に入ったような感覚になった。

 この体がぞくぞくっとする感覚は、言葉や点字星座表で伝えられるものよりもはるかにセンス・オブ・ワンダーに近い。今のはあくまでも例えに過ぎないが、「見える世界」が違う者同士で感動の共有を図る枠組みが、プラネタリウムにもあると良いなと考えている。

【編注】
▽2019年9月18日 誤字を訂正しました。