7回目の3月11日 各紙コラムは震災をどう書いたか

2018年3月13日

 3月11日、東日本大震災から7年がたった。森友文書書き換え疑惑が急展開する只中だったが各紙とも1面コラムは震災7年がテーマだった。



 森友報道でずっとリードしてきた朝日はこの日、1面から森友を排除し、震災に向き合う姿勢を示した。「天声人語」で取り上げられるのは、岩手県陸前高田市で3代続くそば店。津波で父も、つゆの製法が書かれた手帳も失った現店主の男性が、昨秋に店を構えるまでの試行錯誤をたどり「津波で何もかも流されたかに見えて、その実、まちがいなく残されたものがある。(略)一日一日を継ぎ足しながら、店も街も続いていく。」と締めくくった。

 毎日「余録」は7年前の毎日歌壇に、震災で助け合う人々を詠んだ歌が寄せられたことを振り返った上で「それから7年。『被災』は多くの人で分かちあうものから、被災者個々の事情で千差万別のものになった」と経年変化をつづる。孤独死の増加などにも触れ、被災への共感の在り方を「『災後7年』が問う文明の質である」とした。

 読売「編集手帳」は一見関係のないような七夕の話題でスタート。筆者が何年か前に東京・銀座で見たという、亡き息子を思う母の短冊を思い浮かべながら「立ち止まっては祈る──それがつらい別れをした人の暮らしにちがいない」と被災者を慮る。宮城県気仙沼市の男性が妻の遺体と対面した時の様子を描写した後、吉野弘の詩の一節を引用しながら、立ち止まっては祈り、少しだけ進むことの繰り返しが「歩く」ことなのだろうと書いた。

 日経「春秋」は関東大震災時に田山花袋が、過去の天災を忘れてしまう人間の弱さを嘆いた文章を紹介。東日本大震災7年に際し「あの日の記憶が薄れ、遠い地への想像力も鈍りがちだ」と嘆く。田山は震災で東京がかつてのにぎわいを失ったことへの哀愁も記していたといい、以前の姿からは異なる形で復興されていく故郷を前にする東北の人々の切なさを推し量った。

 産経「産経抄」はこの7年間が被災者にとって「『記憶の風化』という世の無情にあらがった歳月でもある」とし、東北学院大の学生が、遺族が見る亡き家族の夢について聞き取ったというエピソードに続ける。一方で政治家の失言や、福島から避難した子どもへのいじめなどが起き、犠牲者の前で胸を張れないような状況が続いていると指摘。「『記憶の風化』は死者と遺族らへの罪深い裏切りであろう」と自戒も込め訴えた。

 同じく震災を経験した神戸の「正平調」は、子の一生を見届けられない母の切なさをうたった俵万智の歌を引き「思わぬかたちで子の一生を見届けてしまった人にすれば、手をとって歩いた七色の時間はあまりに短い」と、6歳の長女を亡くした母親の無念を取り上げる。時がたつほどに募る悲しみは、忘れ去られると感じた時に増す。だから「明日にかかる橋をともに手をとって渡るのは、ほかならぬ私たち一人一人である」と東北との連帯を呼び掛けた。

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 僕は大学の報道サークルで学生記者をしていた時、我が大学でも多くの犠牲が出た阪神・淡路大震災関連の取材を担当。震災特集号のコラムも2度執筆した(2016年、17年)。その際、我が新聞が過去の震災特集号で載せたコラムを見返したことがある。

 震災直後は記者自身も震災を経験した身であることから、震災当時を思い起こす内容が多かった。しかし5年、10年と年がたつにつれて、震災当時の記憶がなかったり、関西以外から進学したため震災についての知識がなかったりする学生も増えてくる。記者の筆力の問題もあるのだろうが、抽象的・総論的に「風化させてはいけない」旨のコラムが増えてくる。

 よく言われることだが、ただ地震や津波が起こるだけでは災害にはならない。そこに人が住んでいるからこそ、災害になる。ならば災害を伝える時に、人間にフォーカスを当てることは欠かせない。もっともな抽象論よりも具体的な事実の方が、読者に迫るものがあるはずだ。

 もちろん「お涙ちょうだい」との批判も確かにある。ステレオタイプな取り上げ方に終始し、被災者に寄り添えないのは本末転倒である。丁寧に、きめ細やかに、被災者の思いをすくい上げ読者の心に訴えかけること。新聞に求められる一つの役割だ。新聞は来年も、再来年も、その先もずっと人が主人公のコラムを書き続けてほしい。