今週のフロント
塩沢由典著『増補 複雑系経済学入門』
元本は1997年刊行。著者も執筆に加わった岡本哲史、小池洋一編著『経済学のパラレルワールド─入門・異端派総合アプローチ』(新評論)が昨秋出版され話題になっているタイミングで、約20年間の研究の進展を追記した上での文庫化となりました。
本書は主流派経済学、つまり新古典派経済学は需要関数の前提である「無限の合理性」と供給関数の前提である「収穫逓減」を軸としてきたことを「非常識な仮定」と断じます。ここでは「無限の合理性」について触れておきましょう。
需要関数は、個々人が自身の効用を最大化させるような財・サービスの組み合わせを選択する「効用最大化」という原理を下敷きにしています。ここで例えば、n個の財・サービスを「買う」か「買わない」の2択で選ぶとすると、組み合わせの数は「2のn乗」で表せます。しかし指数関数というのはnが増えると計算量が爆発的に増えるため、一つの財・サービスを買うかどうかに百万分の一秒しか費やさないとしても、財・サービスが30個あれば17分、40個あれば12日、50個もあると35年もかかってしまいます。人間の無限の合理性を前提とした効用最大化原理が非現実的である以上、需要関数の原理も非現実的です。
あくまでもモデルなのだから現実と乖離があるのは仕方ないという考え方もあるでしょうが、その乖離の大きさは社会主義の計画経済とさほど変わらないはずです。
とは言え人間は過去の経験や習慣を踏まえて、限定的な合理性を発揮し、そこそこの成果を挙げることができます。複雑系経済学は計画経済のような指令のない市場経済で、自然に生じる秩序がなぜそこそこの効率性をもたらすのかという点に着目します。
面白いのは第9章「複雑系としての企業」で展開される「慣行の束」としての企業観でしょう。著者は、企業が少しでも利潤を大きくしようとして行動することを認めつつも、主流派経済学が主張するような、生産量や価格といった少数の変数の操作による利潤最大化追求という単純なモデルを否定します。なぜ効用最大化原理が働かない中で企業はある程度の効率性を生み出せるのか。過程の複雑性に関心を寄せる複雑系経済学らしく、「熟練」やさまざまな慣行が生み出す組織の自律的な働きにその源泉を求めます。逆に言えば経営者の役割とはその自律的な働きに介入して働きをより効率化させていくことだというわけです。これは企業で働く人達の実感にもある程度マッチする理論ではないでしょうか。
アベノミクスや、その反動としてのMMT理論は、どちらも少数の変数さえいじればなんとかなるという発想から抜け出ていないものに感じます。むしろ過程の複雑性に着目するという意味では、現在の行動経済学ブームも本書と問題意識を共有していると言えそうです。こうした地に足の着いた議論こそ、読まれるべきでしょう。
(ちくま学芸文庫、2020年)
見た
テレビ番組
- NHK『100分de名著』「平家物語」第3回「驕れる者久しからず」安部みちこ、伊集院光、安田登、塩高和之(2019.5.20)
- NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』中村勘九郎、阿部サダヲ、森山未來、神木隆之介、ビートたけしほか
- 第19回「箱根駅伝」(2019.5.19)
- 第20回「恋の片道切符」(2019.5.26)
- 第21回「櫻の園」(2019.6.2)
聴いた
ラジオ番組
- TBSラジオ『荻上チキ Session-22』荻上チキ、南部広美
- 特集「緊急地震速報、記録的短時間大雨情報が相次ぐ。新型コロナウイルスが広がる中、これからの自然災害への備えを考える」浦野愛、牛山素行、福島隆史(2020.5.7)
- 特集「まもなく緊急事態宣言がすべて解除へ、今後の『美術館』のあり方とは?」片岡真実、橋爪勇介、橋本麻里(2020.5.22)
読んだ
書籍
- 渋武容『日本の航空産業─国産ジェット機開発の意味と進化するエアライン・空港・管制』中公新書(2020)
ウェブで読めるもの
- 奥山俊宏『(記者解説)廃棄される訴訟記録 健全な民主主義のため、保存は不可欠』朝日新聞デジタル(2020.5.18)
- 神里達博『(月刊安心新聞plus)専門家によるデータ公開 「科学を装った政治」を防ぐ』朝日新聞デジタル(2020.5.22)
- 亀井勝司、小滝麻理子『(金融コンフィデンシャル)外為法の事前審査対象 リスト外れた三菱UFJ 採否分けたわずか2問』日本経済新聞電子版(2020.5.19)
- 平野啓一郎『コロナと創作 文学が描く危機下の共感 「非日常」 価値観変える力』日本経済新聞電子版(2020.5.18)
- 松岡亮二、矢島大輔『(明日へのLesson)第3週:クエスチョン 教育格差を考える 東京大学入試問題から』朝日新聞デジタル(2020.5.20)
- 松村茂雄『(パブリックエディターから)自殺報道の留意点 「なぜ」を改めて確認し直そう』朝日新聞デジタル(2018.1.23)