2019 読書この一年

2019年12月31日

目次

  1. 『維新支持の分析』『女性のいない民主主義』─政治
  2. 『景気の回復が感じられないのはなぜか』─経済
  3. 『「声」とメディアの社会学』─マスコミ関連書
  4. 『居るのはつらいよ』─その他

『「声」とメディアの社会学』─マスコミ関連書

 マスコミ関連書は北出真紀恵『「声」とメディアの社会学─ラジオにおける女性アナウンサーの「声」をめぐって(晃洋書房、3月刊、5月23日読了)が白眉でした。ジェンダーの視点から、ラジオ番組における出演者が果たす役割の変化を描きました。本ブログではしっかり取り上げていないので少し内容をまとめます。この研究は、男性のメインパーソナリティーに女性のアシスタントが付くという今では当たり前の構図の相対化に寄与しています。

 そもそも2人が同時にマイクの前に座り、一定の分業をしながら番組を進めるという形式自体、ラジオが先天的に持っていたものではありませんでした。それまでの番組は短かったので出演者は1人で十分だったからです。

 画期は1960年代のテレビ隆盛。不特定多数を相手とする媒体としての座を奪われて「限定多数」へのメディアとして自らを再定義したラジオは、70年代の朝日放送「おはようパーソナリティ中村鋭一です」を代表とする長時間生ワイドの編成へ移行します。それまでは番組が短いので、その内容が社会的なものであれば男性が、生活情報であれば女性が担当するという意味での性別分業はあったものの、性別間の上下、主従関係は少なくとも番組構成上は存在しませんでした。

 ところが長時間編成で出演者が複数人になり、社会情報を含むフリートークを中心とした番組構成になると、パーソナリティーは自分の言葉で社会を語らねばならないので話し手が男性、聴き手が女性という現在の役割分担が生まれた。本書はこのように見立てています。現在はTBSラジオ「たまむすび」の赤江珠緒さんを代表に、女性パーソナリティー(と、聴き手の男性アシスタントもしくは対等関係の男性パートナー)が進行する番組も当たり前になってきていますが、今でも番組内の主従関係と性別分業が結び付く構成は根強くあると言え、研究の視角は現代の考察にも有用です。

 マスコミを巡り話題になった議論に即した本からは3冊。紛争地などの取材中にジャーナリストが拘束される事件に対する自己責任論、危険地取材不要論を当事者としてどう考えるかを講演録や座談会形式でまとめたのが、安田純平、危険地報道を考えるジャーナリストの会『自己検証・危険地報道(集英社新書、8月刊、11月5日読了)。京都アニメーション放火殺人事件や東京池袋暴走事故で再度わき起こった実名報道の是非に関する議論の際には、少し前の本ですが共同通信記者の澤康臣による英国式事件報道─なぜ実名にこだわるのか(文藝春秋、2010年刊、8月8日読了)を手に取りました。書店にヘイト本があふれる構造を出版社、編集者から取次、書店までの各過程の当事者に語らせた永江朗『私は本屋が好きでした─あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏(太郎次郎社エディタス、11月刊、12月14日読了)は、本好きが出版文化の担い手に持つ期待や幻想を打ち砕きました。

 もう1冊。北海道テレビ「水曜どうでしょう」を見るとなぜ元気になったと感じるのか、なぜファンはこの番組に執着と言ってもいい愛着を持つのかを社会心理学的に考察した広田すみれ『5人目の旅人たち─「水曜どうでしょう」と藩士コミュニティの研究(慶應義塾大学出版会、10月刊、12月29日読了)が示唆に富む内容でした。この番組は(ファンの間はみんな知っていますが)軽微な法令違反や現在のコンプライアンスの観点から問題視され得る場面が登場するので、キー局関係者は放送できないと判断するようです。しかし「藩士」と呼ばれる思い入れの強いファンの中には、うつやいじめの経験など精神的なクライシスを体験した人も少なくないのですが、彼らいわく他のバラエティー番組とは違って「水どう」は安心して見ることができると語っています。他の番組がいじめの構造、吉本的なお笑い芸人社会の構造などがベースになっており、こうした要素がたとえコンプライアンスの基準をクリアしていたとしても、精神的なクライシスを経験した視聴者にとっては視聴に耐え難い内容であるというのです。コンプライアンスが守っているものは何なのだろうと思わずにいられません。

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